■profile
今村岳司/いまむらたけし】
西宮市議会議員/3期目 1972年、西宮市生まれ。 甲陽学院高・京都大法学部卒■浜学園講師・リクルートを経て99年、市議トップ当選(26歳)

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2008.06.06

■行政学ゼミ講演〜
  民主主義という眩暈のするような現実の中で〜京都大学


1:nessun dorma

 今日ここでお話しさせていただく私は西宮市議会議員です。いまで3期目、10年目の35歳です。17年前にこの大学のこの学部に入り、勉強をせずにバイト三昧で6年間学費を払い続け、民間企業に就職し、99年に西宮市議会に初当選しました。政治家になろうと思ったのは大学2留目の6年生のときです。特にコネも金もあったわけではないのです。ただ、「日本はこうあるべきだ」という自分の哲学を実現することができるという仕事は何か、という極めてエゴイスティックな欲求に応えられる選択肢として政治家という職業を選びました。自分の哲学を実現するためには他人の哲学ほど邪魔になるものはないので、一切の政党や団体の支援をもらわず、アンタッチャブルを貫くために、一銭の金銭的援助も拒否して自由に10年間仕事をしています。この仕事を「人に喜ばれるから楽しい」というレベルのモチベーションでやっておれたならきっととても楽しい10年だったかもしれません。しかし、私はそれほど鈍感ではないし、それほど素直ではありません。

 先ほど申し上げたように、私は自分の哲学の実現のために仕事をしてきたので、この10年は極めてタフでした。私の10年間は、いわば、民主主義との飽くなき闘いだったといえます。誤解を招くだろうから言い換えると「民主主義を現状の品質にまで貶めている民度」との闘いです。しかも、それを「民主主義」という現在唯一認められている手段によって政治の現場にコミットした上で為そうというのですから、いわば、身体はすでに毒に冒されている状態で、毒を制そうという10年間でした。日本で普通に学校教育を受けてきた皆さんは(私もそうだったはずですが)、極めて急進的で民主主義信者たちである公立学校教員から教育を受けてきているので、もしかすれば、民主主義というものを疑わずにここまで来た人たちも多いかもしれません。彼らと接したときには皆さんはまだ子供で、論理的思考力に差があり、彼らのイニシエーションに抗えなかった可能性が高いからです。だから、もしかすればきょうこれから聴く話は生半に納得できない話かもしれません。

 しかし、それでいいのです。皆さんが何を吸収するかは皆さんの自由ですが、盲信だけはしてはなりません。他人の言うことをそのまま鵜呑みにする「信仰」は呪縛となり、論理的思考力や創造的発想力を奪います。あなたたちはエリートであるプライドを持つべきです。エリートとは、論理的思考力や創造的発想力によってこの日本に何かを為すべき人たちですから、それには気をつけたほうがいいでしょう。ここで話す機会をいただいている私だって、未だに現実の中でもがいている段階ですので、ここで話す話が私の到達点ではないと自分でさえ思います。だから、「実際の政治の現場でもがいている研究サンプル」、つまりは水槽の中でくるくる回り続けているラットを見るような気持ちで、あくまで客観的に、感情移入せずにご覧になるのがいいと思います。二年前に講演をさせていただいたときには「民主主義はいかに危険か」を話しました。いまそのときの講演のもとになったものを読み返せば、かなり感情的で、絶望に溢れていて、驚きました。若いです。今回の講演はきょうのための書き下ろしです。きょうは、前回の講演の趣旨を踏襲しつつも、「民主主義が賢明な選択をしないこと」の原因をより論理的に分析します。また、最後には、その中で私のあるべき立ち位置、皆さんのあるべき立ち位置を指摘したいと思います。ストーリーとしては簡明だと思います。

2:民主主義の本来的欠陥

2.1:大衆の反逆

 20世紀初頭、アメリカの生物学者ウイリアム・ビーブはガイアナのジャングルで巨大な環状に動く兵隊アリの大群を目にしました。アリ一匹が一周するのに二時間半かかる360mの円周を、アリたちは2日間に亘って回り続け、最後には大半が死んでしまいました。それは、兵隊アリは「いちど迷うと自分の前のアリに続く」という単純なルールに従うからです。これと同じように、大衆はたいへん単純なルールに従っています。そして、自らの首を絞めています。それは歴史上繰り返されてきたことです。
 1895年、大衆社会の到来に対して、フランスのギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』(四字熟語としては誤字)の中で、その暗澹たる気持ちを辛辣に記述しています。彼は、『群衆の中に蓄積されるのは生来の智慧ではなく、愚鈍さだ』と言い切り、一般人が政治的・文化的な影響を及ぼすようになってきた現実を批判しました。「民主主義が賢明な選択をしない」ということを強く訴えたのです。それから35年後、スペインのオルテガ・イ・ガゼットは、1930年に『大衆の反逆』という示唆に富んだ書を世に問いました。その冒頭に、彼は大衆政治の危機について触れています。
 『そのことの善し悪しは別として、今日のヨーロッパ社会において最も重要なひとつの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座にのぼったという事実である。大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである。随ってこの事実は、ヨーロッパが今日、民族や文化が遭遇しうる最大の危機に直面していることを意味しているわけである。こうした危機は、歴史上既に幾度か襲来しており、その様相も、それがもたらす結果も、またその名称も周知のところで ある。つまり、大衆の反逆がそれである。』

 70年前のオルテガが「今日の」と記した危機は、この今日においても世界中で社会を悩ませており、社会はこの危機から70年間逃れることができずにいるということを表しています。「民主主義が賢明な選択をしない」ということです。奇しくも「大衆の反逆」出版の2年後のドイツでは、じゅうぶんに民主主義的な選挙によってナチス等は第一党になり、その1年後にアドルフ・ヒトラーは首相に就任することになりました。大衆はヒトラーを選択したのです。民主主義が自傷行為を行うことをオルテガは予見していたかのようです。現実に、歴史上、民主主義は建設されては破壊されることを繰り返してきており、決して完成された結晶であるとは言えません。

2.2:行き場がなくなったところで止まってしまった
 民主主義の歴史

 さて、その民主主義は人類の歴史においてどのようにして生まれたのでしょうか。それをまずは、ローマ民主制とフランス革命を使って大まかに検証してみます。貴族支配の共和制だったローマでは、その貴族たちが私財によって軍を所有し、ローマを守っていました。だからこそ貴族が支配していたのです。ローマが発展するにしたがって平民も重装歩兵としてローマを守る戦争に参画できるようになったため、「平民勢力」という勢力が出現しました。そして、民主主義は生まれました。しかし、すぐにその平民勢力から貴族以上に権力と支持を得る者が生まれ、貴族は押さえつけられました。それがポンペイウスでした。そして、三頭政治、カエサル独裁と暗殺を経て、アウグストゥスからローマは帝政になりました。ローマ史は支配階級であった貴族に代わって被支配階級だった平民が権力の座に昇り、単に新たな支配階級として君臨するという歴史でした。

 フランス革命前夜の社会は、社会が聖職者と貴族と、唯一の納税層である平民という三身分に分かれていました(アンシャン=レジーム)。ブルボン王朝の無成果な外征に自らの税金が浪費されていくことに(最もルイ16世自身は財政改革に対して積極的でしたが、その改革は保守派貴族によってことごとく日の目を見ることなく潰されました)対して、平民は1789年に「人および市民の権利宣言」を発し、ブルボン王朝は滅亡しました。しかしその後、平民層の最下層のジャコバン党が急進化し、その政情不安から大衆はヒーローを待望しました。そこにナポレオンが登場し、国民投票での圧倒的支持によって皇帝に選ばれたのです。革命からたった15年後の1804年には、フランスは帝政を選択したのです。

 この二つの事例から導き出されるのは「結局大衆が求めたのは新たな王だった」という現実です。支配と被支配の搾取システムのストレスです。そのストレスが臨界点を超えたところでの革命でした。革命のあとの閉塞感。その閉塞感を収束するための英雄待望。大衆に応える新たな王。それは歴史上、何度も繰り返されてきたことです。そして、その新たな王がヒトラーであったり、ブッシュであったりもしたわけです。「民主主義は人間が長い歴史に亘って獲得してきた宝であるからして、その歴史に敬意を持つべきであり、自分で民主主義を勝ち取っていない日本人にはそれがわからないのだ」という主張は一笑に付されるべきです。

 イタリアにだってローマ民主制を知る人はひとりも生きていません。フランスにだってフランス革命を闘った戦士はひとりも生きていないし、アメリカの独立戦争を闘ったアメリカ人も一人もいません。現在のほとんどの世界中の先進国の国民にとっては、民主主義というものは生まれたときからこの世に存在していたのです。

 一方では、「帝政や共和制を転覆しようとした革命は起きたが、民主制を転覆しようとした革命は起きていないではないか」という反論もあるでしょう。それは、現代社会において「民主主義による支配階級」が極めて集約的に軍事力と警察力を保有していることからくる圧倒的な力の差を無視した議論です。明確に「支配」と「被支配」が人種や階級によって分断されているわけではない曖昧な状態ために闘争が起こりえない状況が完成されており、また、革命が起こるほどのストレスを放置するほどには「民主主義による支配階級」が愚かでないからです。

2.3:民主主義の論理的誤謬
 〜『wisdom of crowds』

 民主主義が自らを苦しめてきた歴史に関してはこれまで述べました。では、果たしてこの民主主義というものはなぜ失敗するのでしょうか。『wisdom of crowds』の冒頭の話を引用することによって、民主主義が「賢明な選択をするために必要な条件」を導き、その条件が担保されることが不可能なことを証明することによって、民主主義が「賢明な選択をすることが不可能である」ということを証明してみたいと思います。『wisdom of crowds』の冒頭では、1906年イギリス人科学者フランシス・ゴールトンが、イングランド西部食肉用家禽見本市での雄牛の重量あてコンテストで発見した驚くべき事実を以て、「集団として優れた知力が発揮される」ことを紹介しています。そこに紹介された話はこうです。
 800人が投票した数値の平均は1197ポンドであり、そして正解は1198ポンド、つまり、「みんなの意見」はほぼ正しかった、というのです。

 私たちは有限の情報と技術しか持ち得ない存在であるにもかかわらず、ひとつひとつの不完全な判断が正しい方向に積み重ねられると、集団として優れた知力が発揮されることもあるのです。しかし、ここで「みんな」が正解を導き出した経緯と、暴動やバブルなど、個人の判断を積み重ねることで集合的に全く合理性のない意見が創られる事象を比較して、『wisdom of crowds』は、「集団が賢くあるために欠かせない条件」として、以下の4つをあげています。
それは、
(1)多様性(各人が独自の私的情報を多少なりとも持っている)と
(2)独立性(他者の考えに左右されない)、
(3)分散性(それが限定的な情報であろうが、正確でなかろうが、身近な情報に特化してそれを利用できる)、
(4)集約性(それぞれの個々の判断を集計して集約するメカニズムの存在)です。

 乱暴に集約すれば「それぞれが同程度に間違ってくれる個人の平均は正解に近くなる」のです。しかし、現在の世界で個々人が政治的な意見に関して「多様性」「分散性」を持つことが可能でしょうか(全員のソースは同じく朝日新聞とみのもんたではないのでしょうか)。「独立性」を持つことが可能でしょうか(「新聞を読むこと」が正しいことだと教えられ、社説の言うことや挙げ句の果てには古舘のいうことを話しているではないでしょうか。それに、大衆はそもそも孤独におびえ、他と同じものを嗜好し、他と同じところにいることを好む生き物ではないでしょうか。特に日本人にはその傾向が強いではないでしょうか)。この『wisdom of crowds』が掲げた「集団が賢くあるために欠かせない条件」は「集団を構成する全員が賢いこと」だというのと同じくらい、非現実的ではないでしょうか。

2.4:普通選挙という「失敗するモデル」
 〜西宮市議選の分析

 これまで、民主主義の歴史の粉飾を解く作業と、論理的な誤謬の指摘をおこなってきました。続いて、現実の間接民主主義が「賢明な選択をしない」という事実を地方議会の選挙というローカルな現象の分析によって証明したいと思います。一般的に「投票に行く者は正しき者」とされます。政治の品質が低いのは投票率が低いことのせいにされ、投票率が高くなると政治の質はよくなるというふうに言われます。それは完全な間違いとはいえませんが、無教養なニュースキャスターの言うほど単純なものではありません。まずは、「選挙で選ばれた者は国民(市民)の代表である」ということが虚構であるということを明確に指摘しなくてはなりません。下げ止まりを知らない投票率によって、とうとう選挙で選ばれたもの(=政治家)は国民の代表とは言えなくなってきているのは事実です。

 では、誰の代表なのでしょうか。政治家は国民の代表ではなく、投票に行く人間の代表にすぎないのです。一般的な日本人は投票に対して気まぐれだが、そうでない人たちが厳然と存在していることを忘れてはなりません。雨が降ったら投票率が下がるとか、明確な政策論点があれば投票率が上がるとか、そういった話がまことしやかに囁かれていますが、気候にも政策論点にも左右されずに投票する集団が厳然と存在しているという事実から目を背けることはできません。

 2003年の西宮市議会議員選挙の時点で、西宮の有権者数は347003人でした。そして、投票者数は143533人、投票率は41.36%でした(ちなみに残念ながら2007年の投票率はさらに下がっている)。

投票した人 ■■■■■■■■■■■■■■(14万人)
投票しなかった人 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(20万人)

 一般的に「投票は国民の義務である」とよく言われ(どこにもそうは書いていないが)、投票に行くことはあらまほしいことだとされています。そのため、上記14万人を「西宮をよくすることに貢献した人」、20万人を「西宮をよくすることに貢献しなかった人」というふうにとらえがちです。しかし、これは正確ではありません。20万人は「西宮をよくすることに貢献しなかった」のは事実ですが、「西宮を悪くすることに貢献しなかった」のも厳然たる事実です。一方で、投票に来た14万人を「西宮をよくすることに貢献した人」ととらえていいのでしょうか。

 財政削減を進めようとする橋下知事に対して「自分たちが何を悪いことをしたというのだ」と自分の既得権を守ろうと言動を繰り返している大阪府職員がいます。「手取り34万の私たちの給料を!」と。彼らは大阪を間違いなく悪くする上に、自らのズレに気づいていません。そして、彼らは全員絶対に投票に行きます。彼らは民主党に投票するのです。田舎の田んぼばかりの中にぽつんと立つ巨大ドームは、「絶対に投票に行く人たちの思いの丈」によってできています。彼らは自民党に投票するのです。西宮市議会議員選挙に立候補した者の中にも、このように、労働組合など公益と反する利益に固執する集団の代表者もいれば、全市に対する鳥瞰なく特定の狭い地域のことにしか意識のない代表者もいれば、ただの宗教団体の信者の代表もいます。そればかりか、役所に不当要求を繰り返した挙げ句に傷害事件を起こした犯罪者だって立候補しています。それに、共産党の候補者だっているのです。彼らの支持者はたいへん「コア」であり、必ず投票に行きます。某政党などは投票日になれば寝たきり老人でもたたき起こしてワゴン車に乗せて投票に行くとききます。投票所には必ず監視の目があり、集団に所属しておきながら投票に来なかった人はチェックされていて、村八分になるともききます。

 このように「業界団体や政党支持組織や政治家個人の熱心な後援組織に所属している人」の投票を、候補者ごとの得票によって分析すると恐るべき結果となります。

A:特定利益で投票する人 ■■■■■■■■■■(10万人)
B:個人的に投票する人 ■■■■(4万人)
C:投票しなかった人 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(20万人)

 さらにこの「個人的に投票」の中にも、「候補者を較べて自分の意志で投票した人」もいれば、「誰に投票すればいいのかわからないので何となく投票した人」もいます(後者はタレントに投票したりする層の中心を為します)。これで分けると以下のようになります。

A:特定利益で投票する人 ■■■■■■■■■■(10万人)
B1:意志で投票する人 ■■(2万人)
B2:適当に投票した人 ■■(2万人)
C:投票しなかった人 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(20万人)

 「この人が西宮をよくするはずだ」として投票された可能性のある票はたった2万票しかありません。つまり、14万vs.20万ではなく、B1vs.(A+B2)である、2万vs.(10+2)なのです。
 ちなみに、私は選挙において、「投票率が高まれば西宮の政治は変わる」と訴えてきました。この仕組みは以下です。

A:特定利益で投票する人 ■■■■■■■■■■(10万人)
B1:意志で投票する人 ■■●●●(2万人+X)
B2:適当に投票した人 ■■●●●(2万人+X)
C:投票しなかった人 ■■■■■■■■■■■■■■○○○○○○(20万人-2X)

「投票しなかった人」は確かに「特定利益で投票する人」にはなりません(「特定利益で投票する人」はすでに絶対に投票に行っているからです)。その人たちの半分が「意志で投票する人」になってくれるとすれば、上記のようになり、(A+B2)に対するB1の比率が高まるのです。(このようなことを訴えて理解していただき、投票に行ってくれるような人は「B1」であるわけだから、このことを訴えるチラシに「あなたが投票に行けば西宮は変わる」と書いた私のロジックはまやかしとは言えないでしょう。)

 そもそも、投票率は低いです。一方で、「賢い選択ではない選択」をする人は必ず投票に行きます。雨が降ろうが、槍が降ろうが。ほとんどの「賢い選択をする人」たちは、投票による社会の改善ということに対して諦観を禁じ得ません。投票率が100%になれば「政治の質」がよくなるわけではありません。投票率100%によって達成されるのは、議会と民度が相似形に近くなることだけです(落選者に投票されて死票となる部分がある以上、完全な相似形ではありません)。

 では、相似形になったとして、それは「賢明な選択」をする政治かというと、以上述べてきたことからも、到底そうとは言えないのです。「賢明な選択」を政治が行うことを確実にするためには「A」や「B2」の投票を禁じるしかないが、それはすでに民主主義ではありません。

2.5:間接民主制へのストレスと直接民主制というテロリズム、
 その論理矛盾

 日本国民のほぼすべてが、思い通りにいかない政治・機動力のない政治に対して不満を持っているでしょう(史上不満を持たれなかった政治などが存在したとは思えませんが)。大衆はその「犯罪者」を特定して攻撃することによってそのストレスを発散したいものなので、「選挙によって選ばれる者の品質が低い」(それが大衆の民度より低いかどうかは疑問ですが)という議論がおこってくるのは自明です。

 そして、それは現在の日本では一部の集団に煽動されることによって最近のトピックとなりつつある危険な流れがあります。それが、「直接民主制」的手法への憧憬です。この煽動をおこなっている者こそが、共産党に替わる新左翼である「市民派」という存在です。

 左翼は議会という間接民主制下の王道で敗北した(共産党の無価値化)ことを受けて、左翼勢力は巧妙な地下活動へと戦略を変更しました。その勢力は教員とマスコミへと流入し、洗脳戦略を開始しました。彼等は、現体制に対するストレスを醸成し、非議会活動を煽動する戦略に変えたのです。自らを「市民派」と名乗り、議会が民意を反映していないと喧伝し、住民運動や市民運動の方に主権的正当性があるかのように見せかけることを始めました。そして彼等は「住民投票」や「市民参画」というものを、神聖なる神に与えられた武器として振りかざすことを始めたのです。もはや間接民主政治によって王道に躍り出ることが不可能であると悟った彼らには、これしか生きる道はなかったのです。

 ここで改めて、直接民主制的手法が真に望ましい状況をもたらす手法なのか、論理的に正当性がある手法なのかを検証する必要があります。直接民主制が太古の昔に間接民主制にとって代わられたにもかかわらず、なぜかこの21世紀に再び要求されているという不可思議な状況を説明するためには必要なことです。

 まずは、直接民主制が高度複雑化した現在の社会に相応しいかという実効性を検証する必要があります。「住民投票」であらゆる事項の決定をしようとした場合に発生するであろう政治的混乱は想像に難くない。住民投票をするとした場合の、その投票の選択肢は誰が設定するのだ、という問題があります。もし真に住民の要求を満たすことを目的とするなら、選択肢は非常に多岐にわたるか、「選択」ではなく自由記述によるなどの手法を用いるべきですが、そうなれば集約不可能・議論不可能な小党乱立の極限状態になるといえます。当然、その場合、最多得票の選択肢のみを活かして残りを殺すことになりますが、そうなった場合には、あまりにも多くの「死票」を生む結果となります。さらには、監視の不可能性からくる買収行為・脅迫行為の横行なども考えられます。

 実効性に続いては、論理的正当性についての検証をする必要があります。現在の高度複雑化した社会において、間接民主制を完全に廃して直接民主制を敷くには無理があります(当然、さすがにそれを主張する議論もほとんどありません)。現実的には、議会民主制や首長公選制をそのままにして、部分的に直接民主制的手法を取り入れるということになるでしょう。

 そこに、論理的矛盾が発生します。首長も議会も直接選挙によって選ばれ、その二者が牽制しあっている地方政治に、「住民投票の結果」という「第三の民意」が発生することになるのです。そしてその場合、しばしばその「第三の民意」の仮想敵は首長であり、議会なのです。果たしてそのどれが「民意」といえるのでしょうか。首長も議会も、民意の信託こそがその正当性の担保となっているにもかかわらず、です。ここで、この「首長」や「議会」を仮想敵とする手法こそが、先述の「闘いの場を議会外に移した新左翼」の発想であることが推察されるでしょう。

 ここで改めて認識しなければならないのは、日本には「市民派」の政治家しか存在しない、という事実です。この日本では選挙を経なければ議員になることはできません。汚職で職を追放される悪徳政治家も、追放されるまでは市民の信託によってその職にある「市民派」の議員なのです。つまり、「首長」も「議会」も(論理的には)必要充分に民意を反映しており、市民の信託を受けているにもかかわらず、それを民意の仮想敵とすることには論理的誤謬があるのです。

3:民主主義の腐敗をより加速させるもの

3.1:大衆の性質(I)
 獲得より損失に興味がある。

 これまで述べてきたように、民主主義というものはそれ自身に矛盾や「賢明な選択をしない」メカニズムを内包しています。それは、大衆という存在が内包している性格を移したものだと言えます。そして、また、その大衆の性格を利用している存在が、民主主義が「賢明な選択をしない」方向をより強化しているということをこれから述べていくことにします。

 大衆はそもそも、「獲得より損失に興味がある」存在です。プラトカニスとアーロンソンの『Age of propaganda』に挙げられた実験結果をここで紹介します。

『いま600人が死に至るかもしれない伝染病が発生しているとする。その伝染病を克服するための二つのプログラムを用意している。
1)プログラムAが採用されれば200人の命が助かるだろう。
2)プログラムBが採用されれば、600人の命が助かる確率は3分の1、誰も助からない確率は3分の2である。

 この場合、72%の被験者がAを選びました。「Aは200人の命を助けることを保証している。一方Bは600人の命を3分の1の確率に賭けているのだ」
 しかし、次のような提示ならどうなるか。

1)プログラムAが採用されれば400人が死ぬだろう。
2)プログラムBが採用されれば、誰も死なない可能性は3分の1、600人が死ぬ可能性は3分の2である。

 この場合、78%がBを選びました。「Aを実行すれば400人が確実に死ぬだろう。それならばBに賭けた方がましだ。」

 なぜ選択肢の表現をちょっと変えるだけで、回答の傾向がこうも変わってしまうのでしょうか。

 カーネマンとトヴェルスキは、人々が損失を嫌い、それを避けようとする点に注目しています。

 2000円を得ることによる喜びよりも、2000円を失うことの苦痛のほうが重要なのです。

 「何かを失う」ものとして問題が定義された場合のほうが、何かを獲得するという側面から定義されたときよりも説得的なのです。

 このように、大衆は「損失」に関する情報にはたいへん敏感なのです。

3.2:大衆の性質(II)
 「無思慮」が人を動かす。

 『Age of propaganda』の冒頭では、スーパーの買い物の半数は衝動買いであり、ディスカウントストアに来る客の62%が少なくともひとつは予定外の買い物をしているというデータが紹介されています。人を動かすのは「無思慮:mindlessness」である、と。

 つまり、大衆はひとつひとつの選択に関して熟慮して決定しているわけではなく、「なんとなく」「雰囲気」「その気になった」で決定しているのです。彼らが「脂身25%」の肉より「赤身75%」の肉を買うことには論理的な思考は存在していません。

 湾岸戦争の直前のアメリカには、開戦に対して否定的な世論は極めて強かったのです。なぜなら、彼らが想像したのはベトナム戦争の悪夢だからです。アメリカから遠く離れた気候も文化も違う国で、本国の利益とそこまで関係があるとも思えないことのために戦争をして引っ込みがつかなくなるという愚行(ようは人の喧嘩に無駄に首をつっこんで泥沼に陥ること)を繰り返したくないという智慧は、あのアメリカ人たちにもそのときには存在していました。

 しかし、アメリカは開戦しました。それは湾岸戦争をベトナム戦争以外のものにリンクしてイメージングさせられたからです。それは、ヒトラーでした。世論を開戦に向かせたい共和党政権は、「イラク≒ベトナム」のイメージを払拭するために、かわりに「フセイン≒ヒトラー」であるというイメージを植え付けるためのプロパガンダを徹底して行いました。そして開戦されました。開戦直後の大統領支持率は90%を超えるまでになっていたのです。

 この手法は過去も何度も使われています。同じアメリカでも1980年代にニカラグアやエルサルバドルを援助した戦争を「小規模の紛争」という語彙で表現しました。実際にはニカラグアで5万人、エルサルバドルで7万人の市民が一斉射撃で虐殺されていましたが、その具体的な数字よりも、「小規模の紛争」というワーディングで大衆は判断してきたのです。

 現実に、「政策論争をしよう」などという虚しい言葉は選挙のたびに聞こえてきますが、マスコミの話題をさらうのは(たいがい自民党か民主党のどちらかをあからさまに攻撃対象とした)くだらないスキャンダルです。大衆は政策で判断する能力もなければ、そのつもりもありません。彼らの行動は「無思慮」によって「なんとなく」判断されているのです。

3.3:マスコミの保身とテロリズム
 /大衆を愚かに保つこと

 これまで述べてきた大衆の特性は、ギュスターヴ・ル・ボンやオルテガ・イ・ガゼットの時代より、さらに深刻さを増しています。それはこの大衆の特性を利用し、それを栄養源に生きている巨大な権力である「マスコミ」の台頭によるものです。ここでは、上記の大衆の特質にいかにマスコミがつけ込んで利用し、そして助長しているかを述べましょう。

 マスコミはまるで自分たちが社会正義のように振る舞っていますが、結局は広告料によって自らを生き存えさせているただの民間企業です。つまり、彼らは大衆に支持されなければ生きていけないのです。だから、彼らは大衆を味方につけることを常に考えています。先述のように大衆は損失のほうに興味が強いです。よって、マスコミは不安や怒りを煽るニュースを好みます。こちらのほうが視聴率をとれるからです。

 その対象が仮想敵としてきた「政治」ならなおさらです。日本をよくしようとしている会議のアジェンダより、そこに来ている政治家のスキャンダルとも言えないような小さなスキャンダルを誇張して報道することのほうがよっぽど理想的なネタです。先に述べたように、「政策論議をしよう」と言うだけ言うことによって自らが愚者でないと言い訳しつつ、結局報道するのは偏向スキャンダルなのです。「政治の手柄」や「政治が国民に与える安寧や恩恵」などは報道すべき内容としてはいかにもおもしろくありません。「政治による簒奪」や「政治が国民に与える不安や不利益」は何よりもマスコミによって魅力的なコンテンツなのです。このようなコンテンツを多く取り上げ続けることによって、自然とマスコミは「悪である政治に対する正義」としての立場を確立してゆきます。効果的に自民党と民主党を上げては下げ、下げては上げることによって、彼らの勢力を削いでいきます。「大衆がつく」と思うと急進的にそちらにつき、勝利の後、自らを正当化させ、また勝利した者に恩を着せるのです。

 一方で、彼らに「自らの支援がなくては危険である」ことを暴力的行為によって理解させます。マスコミのいいなりにならない政治家たちは、さらに系列の週刊誌などのごろつき同様の記者たちを使って凄惨な制裁を受けることになるのです。しかもほとんどのマスコミの関わる人間たちはこの状況が完成されきった状態に何の疑いも持っていないので、自ら狂信的にマスコミのことを正義と信じている(報道の自由はあらゆる自由に優先されるべきと考えている)ため、あらゆるテロリズムも辞さないという傾向はより顕著になっています。

 この、マスコミの生殖活動は「選挙において賢い選択をする有権者」にのみ効く毒をまき散らす結果にもなっています。マスコミは政治の失点のみを報道します。それは上記のようにマスコミの保身のためでもあるし、それを大衆が喜ぶからでもあり、大衆が「損失に興味がある」からでもあります。このことから、「賢い選択」をした有権者たちは「裏切られた」という気持ちを抱くようになります。また、「どうせ変わらないんだ」と諦めるようになります。そして、彼らは社会に対して「賢い選択」をすることを虚しいと思わされるようになるのです。

 一方で、「選挙において愚かな選択をする有権者」はこういう報道には鈍感です。「質の悪い政治家に投票している有権者」は愚かすぎて裏切られても投票に行くか、裏切られたことを次の選挙まで覚えておくことができずに改めて投票してしまったりします。こうして「賢い選択」によって選ばれた政治家ほど影響を受けやすい、という状況が醸成されます。これが、選挙のたびに投票率がどんどん低下していく原因なのです。

 私は「2.3:民主主義の論理的誤謬〜『wisdom of crowds』」からの引用で、「集団が賢くあるために欠かせない条件」として、4つの条件を紹介しました。(1)多様性(2)独立性(3)分散性(4)集約性です。マスコミが強大な影響力を持ってしまった社会において、この4つの条件を満たすことが以下に不可能かは、誰でも理解できることでしょう。

3.4:大衆に影響を受ける選挙
 /逆説の法則と裏切り者による汚辱

 大衆に迎合しているのはマスコミだけではありません。なにより選挙の候補者自身が大衆に迎合することによって品質を低下させていっているという側面も忘れてはなりません。候補者たちは白い手袋をはめて、サクラとして集められた支持者の中高年女性たちと握手をして回ります。彼らは「活発なイメージ」を示すために、スニーカーにポロシャツを着込んでスポーツサイクルにまたがったり、商店街を手を振りながら走ってみたりすることにご執心です。これのどこが政策論争なのでしょうか。あれを政治家たちがやりたくてやっているとお思いですか。そうではありません。大衆が、政策などより「爽やかなイメージ」や「クリーンな政治」しか判断できないから、それにあわせて演じている道化なのです。

 『007 tomorrow never die』でのワンシーンを紹介しましょう。世界征服を目論むメディア王エリオット・カーヴァーのパーティーに「banker」を騙って潜入したボンドを監視カメラが見ています。この録画映像を解析にかけた結果を見ながら、カーヴァーの部下である技術者がこう言います。

「James Bond、銀行員です。銀行に過去10年分の雇用記録がしっかり残っています。」
「それは何を意味するのかね?」

「逆説の法則ですよ。彼は諜報員です。」

 アリストテレスはこう書いています。
「我々は立派な人の言うことを、そうでない人が同じことを言う場合よりも完全に、また容易に信じてしまう。」

 このロジックはあまりにまっとうであり、あまりに必殺だったので、人を騙そうとする人はしばしば「立派な人」として振る舞うようになりました。そして、情報が溢れた社会では「立派な人が人を騙す」という事実が溢れました。もしくは「溢れているという情報」が溢れました。このことによって、「立派な人」は「胡散臭い人」になってしまったのです。これによって、情報を発信する側は「立派でない人」を使うようになりました。法律家より、公務員より、お笑い芸人のほうが「正しいことを発信する人」として選ばれるようになりました。しばしば「庶民的」や「消費者目線」などという言葉で、その陳腐さや無教養は許される一方で、「立派な人」を信じるという行為は「外見に騙されている」と表現されるようになり、「立派な人が正しいことを言う」というアリストテレス以来のごく普通の蓋然性は否定されてしまうようになりました。

 その傾向をより加速させたのは、大衆の「僻み」でした。大衆は自らを取るに足らない存在と断定されるのを屈辱ととるようになり、自らの権利を主張するようになりました。そうして「立派な人」こそが、相対的に自らを「取るに足らない一般大衆の一員」としてしまう存在として嫌気されるようになりました。「好感度の高い人」から絶世の美男美女が消えたのもその結果のひとつと考えられるでしょう。大衆をその主食として生命を存えているマスコミは、こういった傾向にたいへん敏感であり、「まともなことを言う立派な人」はテレビからは消えてしまいました。その結果、とうとう、大衆は安物芸人の発言であればあるほど信用してしまうという奇妙な状況になってしまったのです。安物芸人や芸能人同様のキャスターがテレビで発言する内容は、専門的でなければないほど「市民にわかりやすい」となり、感情的であればあるほど「アツい」となり、不確実で無責任な情報を垂れ流すマスコミと、それを喜んで享受する大衆は相思相愛によって繁栄するようになりました。その傾向には現在のところ、歯止めがかかったようには思えません。「総理大臣になって欲しい有名人1位」に太田光が選ばれるまでになってしまったのですから。

 そして、大政党すら、この傾向に迎合する道を選びました。候補者の能力以前に「若い候補」や「女性」を重視し、優秀な人材であっても「官僚出身者」(当然優秀な人材である可能性が極めて高い)は敬遠されたのです。「空中戦」といわれる性格が強い比例代表選挙ではこの傾向が極めて顕著であり、二大政党はこぞって「愚かな選択をする有権者」を奪い合うために「愚かな候補者」を擁立しだしました。オリンピック選手や俳優に始まったこの流れは、大仁田を選び、横峰を選び、公募によって選ばれたニートを代議士にしました。「政治を批判する政治家」となるしか生きる道のなくなった政治家たちはいっせいに政治を自ら批判することを始めました。「政治を貶める」代わりに「政治家である自分」や「自らの党」を相対的に信用させようとしたのです。選挙のたびに「政策論争」という名の「自民党批判」、「民主党批判」の応酬ばかりが繰り広げられました。中には自分の政党の風向きが危ないと見るや自分の党の代表(与党にとっては当然首相)を批判する者まで普通に見られるようになりました。その裏切り行為にすら彼らは平然と手を染めるようになっていきました。彼らは大衆の判断の愚かさを見誤っていたのです。「自民党批判」も「民主党批判」も大衆にとっては「政治批判」に翻訳されて蓄積されていきました。彼らにとって「政治不信」を解消する「政治」など存在しないことをわかっていなかったのです。選挙のたびに自分が生き残るためにやったはずの批判合戦は自分の首を絞めていきました。いっそう政治不信は拡がっていったのです。

4:眩暈のするような現実の中で

4.1:チャーチルのスピーチ

 チャーチルは「民主主義は最悪の政体である」と言っています。私はここまで、民主主義の本来的な欠陥と、その腐敗が加速していく状況を述べてきました。しかし、私がここでこれほどまでに詳述しなくても、このようにチャーチルはすでに述べています。あまりにあっさりと。民主主義がいかに美しいものだと粉飾して騙る者があろうと、民主主義が最悪の政体であることに疑いはありません。少なくとも「賢明な選択」が不可能な政体であることに疑いはありません。ではどうするのか、が、最終章のテーマです。ちなみに、このチャーチルのスピーチには続きがあります。

「民主主義は最悪の政体である。これまでに試された過去のあらゆる政体を別にすれば」

 民主主義が欠陥製品であるのは確かではありますが、明確な対案がないのも確かなのです。もしあればローマからいままでの間にとって代わっているはずです。私個人的には独裁政治などのほうがよほど対案としてはましな気がしますが、支持の得られる意見ではないと思います。少なくとも私は独裁者になろうという気はありません。このように、対案があったとしても、それを追求すること、もし追求できたとして実現することにはコストがかかりすぎるのが現実です。仮に民主主義への対案が存在したとしてそれを実現させるために武器を取って立ち上がるでしょうか?「民主主義打倒」はそのコストに見合うほどの旗印でしょうか?それを考えたとき、民主主義と現実的にどうつきあうのか、を考える必要が出てきます。

4.2:「民主主義かどうか」がそれほど大切か〜鼓腹撃壌

そもそも、大衆が求めているのは何でしょうか。それを端的に記したものとして、『十八史略』の尭帝の世を記した有名な節、「鼓腹撃壌」を紹介することにします。

 あるとき、尭帝は、天下が平安かどうかを確認しようと市井に出ます。そこで、子どもたちの歌う歌を耳にします。

 立我烝民 莫匪爾極 不識不知 順帝之則

 我が烝民(じょうみん)を立つるは なんじの極(きょく)にあらざるなし
 しらずしらず みかどの則(のり)に順(したが)う

 私たち民衆が無事に生活できているのは、すべてあなたの立派な徳のおかげです♪
 知らず知らずのうちに 帝の法に従っています♪

 そこで堯が目にしたのは、堯の政治のすばらしさを讃え、踊り歌う子どもたちの姿でした。部下もそれを見てこう言います。「陛下、子どもまで陛下の治世のすばらしさを讃えているではないですか!」
 しかし、尭帝はこの歌を簡単に信用できません。別の日にお忍びで街に出て、老人の歌を耳にします。老人はおなかいっぱいに食事をして、リズムを取っています。

 日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田而食 帝力何有於我哉

 日出でて作(はたら)き 日入りて息(いこ)う
 井を鑿(うが)ちて飲み 田を耕して食らう
 帝力何ぞ我に有らんや

 日が昇れば働き、日が沈めば仕事を終えてくつろぐ♪
 喉が渇けば井戸を掘って水を飲み、腹がすけば田を耕して飯を食う♪
 (我々は自分たちで自分たちの生活を営んでいる。)
 皇帝の力なんて私の暮らしには何も関係ないのさ♪

 ここで尭帝の心は晴れるのです。人民が何の不安もなく鼓腹撃壌して自分の生活を楽しんでいる状況こそが、政治がうまくいっていることだと彼は再認識しました。

 この逸話を転じて「鼓腹撃壌」は、天下太平を表す言葉とされるようになりました。この鼓腹撃壌の故事から学ぶべきことは「あらまほしき政治」についての最もプリミティブな考え方についてです。市民はいい政治がほしいのではありません。ただ、平安に日々を送りたいのです。市民は政治に参加したいのではありません。いい社会がほしいのです。

 先述のローマやフランス革命の検証においても、最初の衝動は、参政権に対する欲望ではなく、圧政と搾取からの解放だったのです。これまでの闘いは「参政権を求める闘い」ではなく「支配からの自由を求める闘い」でした。それを民主主義者が聖戦とするために意義を変質させて歴史に記したに過ぎないのです。つまり、民主主義絶対主義の発想から少し距離を置き、ガバナンスの方向性を確認する必要があるのです。民主主義かどうかなどはどうでもよいのです。社会が平安であればいいのです。それを実現するために何をなすべきかを論の結びとしましょう。

4.3:西宮市議会議員今村岳司の立つべきところ

 先ほどのとおり、西宮市議会においても「民主主義が賢明な選択をする」というのは夢物語です。二年前にここでお話しさせていただいたころから較べると、私も大会派の幹事長となって議会を運営する側に立つようにもなりました。そのことが理由かもしれませんが、以前ほど現状に悲観的な考えを持っているわけではありません。ただ、私が所属してきたあらゆる集団の中で、議会が最も機能していない集団であるのは明確です。「賢い選択」によって選ばれているわけではない議員の集団なのですから、皆さんが会ったことのないような程度の人間も存在しています。

 二元代表制はかたちばかりで、共産党すら存在している議会を一枚岩にして、立法府として行政府と張り合うことなどは、まだ先の話しです。

 ちなみに、よく言われる「行政のチェックが議会の職責」などはとんでもない暴論です。これは、現代の社会に蔓延る悪しきアマチュア主義の表現ということができます。「行政のチェック」ならオンブズマンのような輩やマスコミですらやっているので、それのみによって税金でペイを受ける正当性はとても低いと言わざるを得ません(しかも会計などの特殊技能を有しているわけでもありません)。しかも、そのチェックには限界があります。よく、行政の問題がマスコミによって表沙汰になったときに「チェック機関である議会は何をしていたのだ」という意見がありますが、現実的には不可能です。そういった問題点の噴出のメカニズムとは、マスコミが「暴く」のではなく、結局は「垂れ込み」頼みとなっているため、情報提供側からすれば、その「垂れ込み」の先としては、慎重に議論する議会などより、センセーション主義で飛びつくマスコミの方が都合がいいのは自明です。議会での議論は、しばしばロジックとはかけ離れた、そこらへんの居酒屋や井戸端で繰り広げられているイノセントな市民の物言いとほぼ同じ温度感のものに陥りがちですが、さらに恐ろしいことに、こういった議員たちは「市民感覚と近いこと」をかえって誇ることすらあるのが現実です。「大衆との同一化」の奨励される状況では、そのような勘違いが為されるのも無理はないというところでしょうか。

 さて、この民主主義によって「賢明な選択」からかけ離れた西宮市議会で私の為すべきことはなにか、ということを、きちんと表明しておきたいと思います。それは、民主主義という手枷をはめられたままでも、西宮のために闘うという政治を貫くことです。民主主義の陥りやすい欠陥に常に注意しながらガバナンスに携わるということです。民主主義下での選挙は政策とはかけ離れたものになりがちだ、と言いました。だからこそ、政策のみによって選挙を闘い、大衆に媚びた手法に頼って選挙をする候補者に圧倒的に勝利すればよいのです。民主主義下での選挙は特定の支持基盤によって支持されてその集団のために政治を行う政治に陥りがちだ、といいました。だからこそ、支持基盤をつくらず、当選したあとは、常に自分を支持して投票してくれたであろう有権者のためではなく、西宮全体の賢明な選択のために政治をすればよいのです。惑わされている大衆も含めての西宮全体、です。すべてに君臨し、統治するのが「大衆ではない人間」のつとめだからです。私は西宮に判断を下す人間として、その判断を曇らせないために、マスコミのニュースには触れません。市政相談のようなものもほとんど受けません。あくまで自分の判断に基づいて行動することを強く律しています。そういうと、「自分の判断が賢明であるとどうやって判断できるのか。自分だけで判断していると自分の過ちに気づくことができないではないか」という人がいます。その問いにはじゅうぶんに答えることができます。私は大衆ではなく、賢明な判断を下せる優秀な相談相手たちを自分のストッパーとしているので、何の問題もありません。そもそも、自分の判断が賢明であるという自信のない者などに政治に携わる資格などないのです。

 私は、民主主義は最悪の政体だと思っています。ですが、それは今朝起きれば雨が降っていた、とかと同じ「状況」として受け入れようと思っています。それを敗北の理由にするわけにはいかないのです。
 元日本代表のボランチを務めた山口素弘はこういっています。
『日本人は身体能力が劣っている。運動能力も劣っている。それは仕方がないことだと思っている。でも、そういうチームが、どうやって勝負して、どうやって勝つのか。そのことを考えるのが、サッカーの戦略というものだ。だから負けたのは、単純に身体能力の差があったからといわれると、それは違うと断言できる。つまりサッカーは国によって、それぞれの戦い方がある。それを「身体能力の差、運動能力の差」で結論づけてしまったら、それこそ日本人のDNAを組み替えるしかないのだろう。』

 「みんなのだいすきな民主主義による選挙」を経て私は政治の場に存在しているのですから、あらゆる民主主義派からの誹りを受ける筋合いがない状態にあります。ただ、私は「民主的であること」のために仕事をするのではなく、西宮のために賢明な判断を下すために仕事をするのが職責です。あと、私は地方議員であるのでマスコミの影響を受けにくい、ということ付け加えておきましょう。皆さんが読んでいる新聞に地方議会の事案が掲載されることがどれだけあるだろうか考えてみてください。マスコミにとって地方議会はあまりにニュースバリューの低い存在なので、彼らの被害をあまり受けずに政治を行うことができるのです。これも、私が現状を現状として受け入れて政治を行っていこう、と言える大きな理由だと言えます。

4.4:エリートの務め
 〜大衆に迎合するのではなく、大衆を導かなくてはいけない。

 1991年、フィンランド人ハッカーのリーナス・トーバルズ(ちなみに『ソードフィッシュ』のはじめのほうで組織に消されるフィンランド人ハッカーは「トーバルズ」だった)はユニックスというOSのオリジナル版を開発し、自分の名前にちなんでリナックスと命名しました。その後、彼は自分が書いたソースコードを一般に公開したのです。「自由に配布できる成果なら、ご連絡ください。システムに加えたいので」という一文を付して。リナックスをダウンロードした最初の10人のうち、5人がバグの修正点、コード上の改善点、新機能を送ってきました。その後、リナックスの改善のプロセスは制度化され、何千人というプログラマーが無償で大小にかかわらずOSの欠陥を修正し、リナックスをこれまでになく信頼できるシステムに育て上げました。「大衆」がマイクロソフトという帝国に勝利した有名な事例です。しかし、リナックスの場合、リーナスを含む一握りの人たちが、OSのソースコードに加えるべき修正点を綿密に検証しています。世界中にリナックスのプログラマーになりたい人はたくさんいますが、最終的にはすべてリーナスが決めるのです。そうでなければベストソリューションが得られ続けた事実はなされ得なかったでしょう。大衆からアイデアや意見を募るのはたいへんよいことですが、その大衆(といってもリナックスの場合には一定の技術を有していることが最低条件なのは当然である)のアイデアを編集し、導くのは、やはり一握りの智慧ある人間なのです。他のアイデアに惑わされず、その他のアイデアを容れるべきかどうかもあなたが判断することが大切です。

 あなたが洋服屋に行くことを思い浮かべたらいいでしょう。お目当ての服はあるのですが、店に入るやいなや店員がぞくぞくとあなたに寄ってきます。これが流行っている、これがあなたに似合う、彼らは言葉巧みにあなたにいろいろな服を薦めてきます。彼らはファッションに詳しい人、という言いかたもできますが、あなたに服を販売しようという強い意志は、あなたに似合うファッションをあなたに伝えてあげようという意志よりは強いということを忘れてはいけません。あなたは店員を笑顔でいなし、お目当ての服を探し、試着室でそれを確認して、店員にその対価を支払って帰るべきなのです。あなたが服屋の店員より自分のファッションに関して意志を持っていればそれはじゅうぶん可能なことです。

 あなたたちはこれからの世の中をリードしていくべきエリートたちです。そのエリートの卵たちに対して、4つのことをお願いして講演を閉じたいと思います。

1)信仰してはならない
 信仰は呪縛となり、発想を限定し、思慮を奪います。常識とされているものも一度は疑ってみましょう。
 自分で納得しないものを発想の礎にしてはいけません。定理も自分で使うなら、一度は自分の手で証明しなければいけません。また、世の中に常識とされている概念や思想や哲学も、必ず自分のアタマで再検証することを心がけなければなりません。人の話をそのまま聴くのではなく、そのロジックや背景を自分なりに理解してから使いましょう。

2)情熱だけでは何も生まれない
 「やる気があればなんでもできる」ほどの嘘はありません。「やる気」はあくまで必要条件であり、それに加えて智慧、才能、努力、運などが必要です。せっかくの情熱を形にしようと思うのなら、努力によって智慧と才能を磨いて欲しいのです。常に論理的に、アタマを使って行動するように心懸けましょう。

3)日本語の通じない相手がいることを知らねばならない
 「話せばわかる」のは、相手が充分に理性的であったり、あなたに対して親愛の情を持っていたり、そもそも譲歩する用意があるという場合に限られます。確かに、企業の社内など、哲学を共有していたり、品質の均等な人材が集まっている場所においては「話せばわかる」場合が多いですが、そうでない人間が世の中に如何に多いかは思い知るべきです。彼らに対して感情的になっては何も変わりません。冷静に、冷徹に、ロジックを以て淡々と議論するべきです。あなたには遂行すべきタスクがあり、その障害となっている人物を憎むことが目的ではないのです。感情は自分を苦しめ、無駄を生み、判断を誤らせるため、できる限り排することが必要です。

4)プライドを持たなければならない
 自分という存在をもういちど考えるべきです。あなたたちは、この日本を背負って立つべきエリートたちです。優れた才を持った人間には、その才を以て世の中に対して何かを為すという責任があるのです。単に自分が楽しいだけの人生ではなく、日本の歴史に対して何かを為すという気概を持ち、それを喜びと思って欲しいのです。だからこそ、きょう私はこの京都まで来たのだ、と理解してください。人の上に立つべき人に必要な教養と品性を、しっかりと身につけ、この日本を導いてください。



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