2007.08.05
■ISFJ講演〜政策をつくる、ということについて。〜同志社大学
きょうは、政策を設計するというのはどういうことなのか、というお話をします。
1.鼓腹撃壌
〜政策は、それひとりでは存在し得ない
「鼓腹撃壌」とは十八史略にある、三皇五帝の堯の故事です。三皇五帝とは、中国史における伝説上の最も古い名君のことです。堯はその一。儒教で為政者の理想とされている人です。 彼はある日、自分の政治が人民に支持されているのかどうか気になったので、自ら天下を視察しようと思い立ちました。それである日、堯は民草の暮らしを視察に出かけます。
立我烝民 莫匪爾極 不識不知 順帝之則
我が烝民(じょうみん)を立つるは なんじの極(きょく)にあらざるなし
しらずしらず みかどの則(のり)に順(したが)う
私たち民衆が無事に生活できているのは、あなたがたいへん立派だからです♪
知らず知らずのうちに陛下の政治に遵っています♪
そこで堯が目にしたのは、堯の政治のすばらしさを讃え、踊り歌う子どもたちの姿でした。部下もそれを見てこう言います。「陛下、子どもまで陛下の治世のすばらしさを讃えているではないですか!」
しかし堯、そこはさすが名君です。
(子どもたちがこんな歌を歌うわけがない。絶対これはオトナが歌わせているに決まっている。)
これが、部下たちの「仕込み」であるとすぐに見破ってしまいます。確かに不自然です。そこで、彼は、改めて視察に出ることにします。今度は、部下にも言わず、皇帝とはわからないような姿に変装してお忍びで城下に視察に出たのでした。
今度、堯が目にしたのは、食べものをほおばりながら、腹を叩(鼓)き、地面(壌)を踏み鳴ら(撃)し、リズムをとって楽しげに歌う老百姓でした。
日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田而食 帝力何有於我哉
日出でて作(はたら)き 日入りて息(いこ)う
井を鑿(うが)ちて飲み 田を耕して食らう
帝力何ぞ我に有らんや
日が昇れば働き、日が沈めば仕事を終えてくつろぐ♪
喉が渇けば井戸を掘って水を飲み、腹がすけば田を耕して飯を食う♪
(我々は自分たちで自分たちの生活を営んでいる。)
皇帝の力なんて私の暮らしには何も関係ないのさ♪
これを聴いた堯はやっと満足しました。「私の政治はまちがっていない。」これで堯は視察を終えました。
「鼓腹撃壌の歌」。この故事は政治の理想を表しています。政治が行われているかどうかもわからないほどに泰平の世の中、ということです。政治がなにか特別なことをしなくてもよいほどに泰平な世の中、という言い方もできます。それが行われていることを民が気付かないようにさりげなく行われている政治、という言い方もできるかもしれません。
要は、政治や政策などいうものは、ないにこしたことはないのです。
政治や政策が必要になるのは課題があるからなのです。放置してはおけないような課題が発生しているからこそ、それを解決するために初めて政治や政策が生まれるのです。貧困があるからこそ福祉が必要とされ、犯罪があるからこそ警察が必要とされるのです。医者にかからないほど健康なのであれば、それにこしたことはないはずなのです。
であるならば。西宮で政策をつくるのであれば、西宮に解決すべき課題が存在していることが大前提となるのです。常に発想の原点は、西宮の課題になければおかしいのです。
そのことからしてみれば、他の市が、県が、国が、すばらしい政策を行っているからといって、それを即ち取り入れるということは、過ちであるということになります。たとえば、横浜市で先進的なある政策が行われていたとします。だからといって、即ち「西宮でもそれを取り入れよう」とするのはどうでしょうか。(実際、私も政治家になったばかりの20代の頃はそのような政治活動をしていましたが。)もしかすれば、横浜ではそのような政策を行わなければいけないような問題があるけれども、西宮にはそんな問題自体がないのかもしれません。
北欧の教育が、ニュージーランドの行政改革が、とすぐ言いますが、それは外国のはなし。必ずしも真似をするべきではないのです。北欧と同じ課題が西宮にあるかどうか疑わしいからです。さらに、仮に同じ課題があったとしても、真似をして同じ制度を導入するのであれば、それによって必ず発生するはずの大量の不都合を修正するための政策が合わせて必要なのです。違う文化に根付いたものを移植するのですから、きわめてデリケートなオペレーションが必要なはずなのです。
改めて他で行われた政策を、仮に取り入れるのであれば。まずは、なぜ横浜でその政策が必要であったのかを研究する必要があります。横浜は何の課題を解決するためにその政策を行っているのか、ということを考えなければいけません。また、その政策が解決策として最適だとされた横浜の状況にも考えを巡らせる必要があります。
その上でやっと。西宮にも同じ課題があることを確認し、その解決策として同じ政策が最適とされるべき状況があるのかを確認する必要があります。それであれば、やっと「横浜では○○をやっている。西宮でもやるべきではないのか」という議論になるのです。先進政策事例導入にあたっては、政策のすばらしさではなくて、課題の共通性から出発すべきなのです。
以前、埼玉県の志木市に行政改革の研究に関する視察にいったときのことです。志木市もよい政治の行われている自治体として有名です。あまりにストレートな政策に驚いて、「御市では市職員の組合はそういった政策に対しての反対運動などをしないのですか?」と訊きました。
「ええ。本市には、職員の組合なんてありませんよ。」
笑顔で答える担当職員。
−志木市には、社会の癌である官公労がない…。
視察にいった一同全員、苦笑でした。
そうとなれば志木市はただの外国なのです。西宮にだって、もし官公労がなければ、そんな改革は明日にでもできるかもしれません。その政策がすばらしいのではなくて、官公労の影響がないこと自体がすばらしいことであり、その政策を西宮に導入することなど現時点では不可能なのです。
改めて。西宮には志木市とは違って官公労も厳然としてあり、西宮の市長は横浜の市長と違って才能もバイタリティもなくて、投票率もたった40%なのです。西宮で現実に政策を創る私は、それを憎んでも仕方がないのです。それが愛すべき西宮の現実であり、その西宮で政治を行っているのが私の現実であり、その環境を受け入れて、その西宮の現実の課題を解決するために政策を創るのです。私は、西宮の現状と課題から議論をスタートさせるべきなのです。あくまでも、西宮の現実の課題を解決するためだけに政策は行われるべきで、政治は必要以上に社会に介入すべきではないから、です。
この発想を私は「イタリア料理的な発想」と言っています。
イタリア料理と聞いてどんな料理を思い浮かべるでしょうか。
パスタですか?ピザですか?トマトソースですか?
確かに、日本のイタリア料理店で楽しめる料理には必ずあるメニューです。しかし、実は、これぞイタリア料理というような料理は存在しないのです。そして、逆にイタリア料理というものは存在しませんが、ローマ料理はあります。シチリア料理はあります。ナポリ料理はあります。
どういうことかというと。イタリア料理とは、その土地で採れる食材をいちばん美味しく食べる方法で食べる料理、ということなのです。それがイタリア料理の哲学なのです。ですから、当然、ひとくちにイタリア料理といっても、地域で採れる食材によってまったく違ったものになるのです。たとえば魚介類が豊富に採れるところでは魚介類を、トマトであればトマトをというように、その土地で採れる食材をシンプルに如何に美味しく食べるかを追求した料理なのです。「この魚をいちばん美味しく食べられる方法ななんだろう」「トマトがたくさん採れたからどうやって食べたら美味しいだろう」と考えるから、魚は生で食べたり、ただシンプルに蒸したり焼いたりしますし、何でもかんでも鍋に放り込んでトマトとオリーブオイルで煮たりするのです。イタリア料理は調理がシンプルなのです。
一方、フランス料理はというと、まず美味しさの理想があります。その理想の追求のために各地から色々な食材が集められ、様々な調理法が考案されるのです。イタリア料理とフランス料理は料理としての基本的な性格がまったく異なっているのです。王様の料理と、諸侯の料理、の違いなのかもしれません。
政策はイタリアン志向で行われるべきです。政治主導で何かを「やりたがってやる」のは、いわゆる「大きなお世話」なのです。その政策を行う自治体の現状を見極めて、その地域の特性に合致した政策をつくらなければなりません。西宮であれば、西宮の良さを活かす政策をつくるべきなのです。そのまちをそのままに。シンプルであるほど良いのです。
2.指向性
〜ある方向に流れる歴史の中での現在。座標軸と現時点の確認。
政策を行うには、自治体の理想像というものを、明確に、一貫して、持ち続けなければなりません。その理想に近づいていくために、政策を設計するのです。設計する数々の政策は、共通した「あらまほしき西宮のすがた」から誘導されるものであるべきです。
よく、「市民の声を聞いて動くのが政治家だ」と勘違いして、自分に寄せられた声を鵜呑みにする議員がいます。それを右から左に「市民は訴えている」と、得意顔で議会で主張するのです。そういう議員の訴える政策は、あるとき議会で訴えたものと、あるとき議会で訴えたものに非整合が生まれてくるのです。それは当然のことで、彼に寄せられる声は、彼に寄せられた声の数だけ、異なった立場による意図を持っているからです。ひとりの政治家から出てくる政策は、そうであってはいけません。彼は西宮をどうするために闘う政治家なのかわからなくなってしまうからです。闘うべき哲学のない政治家など、政治家ではありません。自らの哲学に反する「市民」の訴えに対しては、きちんと説明をし、その訴えを取り下げるよう説得するべきです。彼らの怒りは、状況や原因や周辺事情に対する無理解や、鳥瞰視野の不足から生じている場合もあり、むしろその場合のほうが多いからです。当然、それは責められるべきではありません。彼らは政策のプロではないし、自分のエゴに基づいて一定の主張を行う権利は当然あるからです。そんな彼らに対して、プロである政治家は、まずは、説得を試みなければいけません。意見が違うからといって無視したり、取り合わなかったりするのは、それはまた全市に対して責を負う政治家として許される態度ではありません。それが往々にして徒労に終わると知っていても、です。そして、その説得に応じなければ、それは果たして「もの別れ」に終わるのです。それは悲しむべきことではなく、その「市民」は別の政治家に訴えればよいのです。その「市民」には、自らの意志を議会という場に運ぶ政治家を選ぶ権利があるからです。そして、その異なった哲学を奉る政治家同士が、議会で闘えばよいのです。それが間接民主制というシステムなのです。
ただ、これはしばしば理想論に過ぎません。民主主義という、恐ろしく不完全で理想とはかけ離れた制度のもとでは、政治家は哲学を持たず、「票乞食」に成り下がって、市民の訴えに隷属している場合がほとんどです。どんな訴えであっても「おっしゃるとおり!私が議会で訴えます!」と安請け合いし、彼らの票を得ようとします。排除されるべき政治家にはふたつあるのです。ひとつには、官公労や業界団体など特定の利益集団の利益を護るため、という偏狭な哲学によってのみ動く政治家。かれらは、明確に「市全体の利益」より「特定の利益団体の利益」を護る、という宗教的な隷属のもとにあります。もうひとつは、地域代表などに多い、「無哲学・安請け合い」の票乞食です。
いくら「理想と哲学に順って政策を行うのが政治家だ」というのが、他に例を見ない理想論であっても、私自身は、そのあらまほしき政治家としての姿を貫くべきだと思っています。忠実に「あらまほしき政治家」として在り続けることによって「政治家は市民の御用聞き」と思っている市民を啓蒙すること、それもあわせて、プロの政治家の使命だと思っているからです。つまりは、政治家は明確な理想と哲学に順って政策活動を行うべきだ、ということです。
「指向性」について話したいことがもう一点。それは、たったひとつの政策で課題をすべて解決してやろうなどとは考えないほうがよい、ということです。
掲げた理想は、そんな簡単に実現するようなものなのでしょうか。きっとその理想は、もっと高遠でひかり輝くもののはずです。むしろ、永遠に目指し続けることができるものかもしれません。つまり、絶対に辿りつくことのないものなのかもしれません。「理想」ですから。歴史の終着点はそんな近くにあるわけがないのです。
答えを拙速に求めるのであれば、それは政策活動ではありません。それは革命です。革命を成したいのであれば、政策をやめて武器をとるべきなのです。政策で革命を起こすことが不可能であるということは歴史が証明しています。歴史上全ての革命は武器によって為されたのです。
この「いま」というときに、この「西宮」というまちで、「今村岳司」という政治家が為すべきことは何か。あらまほしき西宮への歴史の流れに於いて、自分がいま為すべきことは何か。それを意識した政策設計を行うべきなのです。理想に向かって、ひとつひとつの政策で、一歩々々あゆみを進めることが大切なのです。その政策ひとつで課題の全てが解決していなくてもいい、その代わり、確実にひとつの哲学に基づいて、ひとつの理想に向かって事態を前に進めるものでなければいけないのです。
3.戦略的思考
〜西洋医学的治療と東洋医学的治療
さて、その理想に基づいて、明確な課題を解消するために為される政策ですが、次に必要なのは、実際に課題を解消するための「治療方法」に対する工夫、つまり、戦略的思考です。
この「治療方法」について考えなければいけないことは、「治療方法」には「西洋医学的治療」と「東洋医学的治療」があるということです。
西洋医学は病気の原因となっているものを除去したり、外部からの圧力や異物によって変成させたりすることによる、患部への対処療法です。それは強力で即効性がありますが、その強力さや不自然さゆえの副作用も強い場合が多いです。
それに対して東洋医学は、「病気の原因、の原因は?」というように、原因を遡っていき、より根本的な原因を解消しようとします。表層的に現れた症状の治癒、というよりは、体質改善を考えます。それは即効性を欠きますが、持続的であり、より根本的な治療と言えます。副作用は一般的には弱いです。
課題を解決するための政策の設計にあたっては、戦略的思考を持って対処する必要があります。つまり、即効性で強力な西洋医学的手法と、遅効性ではあるが課題の根本的原因の解決を為すための東洋医学的手法の特性を熟知して、双方のオペレーションを複合した政策を展開する必要があるのです。
たとえば、犯罪が多いという課題があるとします。この課題を解決するために、犯罪者には例外なく厳罰を科すという政策をつくるとします。これは西洋医学的政策です。確かに、これによって犯罪数が減少するかもしれません。しかしこれでは、その「犯罪が多いことの原因」という課題の解決にはなりません。やむを得ない理由による犯罪、たとえば、食うにも食えないような貧困ゆえの窃盗などは、いかに厳罰を設定しようとも、厳罰を与えられるリスクを承知で犯罪を起こす可能性は減りません。また、罰による取り締まりには、当然のように、その罰をかいくぐる手段を考案する犯罪者とのイタチごっこが待っているのです。また、厳罰が行き過ぎれば、取り締まる官憲への贈賄、あるいは襲撃などの副作用が発生する可能性もあるのです。冤罪によって取り返しのつかないことが起こってしまうことも考えられます。
だから、それにあわせて、犯罪を起こさないようにするための教育や福祉の政策を展開します。教育によって犯罪を起こさない人間性を育て、福祉によって貧困を解消することによって、長い目で見れば犯罪を減らすことにつながるでしょう。これは東洋医学的政策、ということができます。
西洋医学的政策が悪くて、東洋医学的政策が良いということではありません。教育の効果が現れるには何十年もかかるかもしれません。それでは、いまここに犯罪に苦しんでいる人々を救うことにならないかもしれません。確かに、いまここで彼らを救うためには、厳罰を科して、少しでも犯罪の数を減らすという政策が必要なのです。一般的な善政とは、思い切った西洋医学的政策への取り組みである場合が多いです。しかし、わかりやすい西洋医学的政策のみで課題が解決しない、ということを理解し、東洋医学的政策もあわせて行わなければいけない、ということを考えておかねばなりません。
要は、政策を行うときには、その治療(オペレーション)が、どの患部に作用して、どのような効用を齎すものなのかを正確に理解していなければならない、ということです。「なんとなく効果がありそう」な政策をとってはいけない、ということです。患部と効果は正確に把握されていなければなりません。世の中の現象には複雑に連鎖関係が張り巡らされています。ですから、ひとつの課題解決にひとつの政策だけですむようなことはまずなく、複数の政策を重層的に施行することが必要なのです。施行する複数の政策のそれぞれが、何を対象とし、どのような効果を生むのか、その効果はどれくらいの期間でどの程度現れるのか、また、どのような副作用が生じるかなどを検討して、西洋医学的政策と東洋医学的政策を重層的に組み合わせて課題に取り組んでいくことが必要なのです。
4.色即是空
〜必要充分なオプションの拡散と並列
「色即是空」とは般若心経にある有名な言葉です。般若心経の神髄であり、もっというなら仏教の神髄の言葉だといっていい言葉です。
「色すなわちこれ空なり」。
「色」とは目に見えるもの、つまりこの世の現象のことで、「空」とは何にもとらわれていない状態という意味です。要するに、世の中のさまざまな現象は何にもとらわれていないということを表しており、世の中などは一定しない、決めつけられない、儚いものであるということです。また、般若心経では「色即是空」に続けて「空即是色」、すなわち、一定しない、決めつけられない、儚いものこそが世の中だ、と言っています。仏教では、何かに対してこだわるのではなく、ありのままを受け入れるべきだ、と教えます。だから仏教は宗教戦争を行わないのです。絶対的な正解もなければ、敵や間違いなどは存在しない、という考えだからなのです。余談ですが。
これを政策の設計にあてはめれば、つまり、絶対にだめな政策などというものはなく、またこれが特効薬だという政策もない、ということです。政策に正解も不正解もないのです。少なくとも、プロとして一定の能力があり、愛国心と愛郷心があり、理想と哲学に順っている政治家の設計する政策であれば。
政策を設計するときには、政策の効果を生むためのオプションを複合的に考え、精密なロジックができてはじめて、正解に近づきます。先ほど述べたように、ひとつだけの政策ですでに正解といえる政策ということはないので、政策を複合させる必要があるでしょうし、その政策が効果を生むための重要な複合要素は必ずあるのです。
ある政策のアイデアを思いついた時点では、しばしば正解も不正解もありません。そのため、政策を設計するときにはまず可能性のあるオプションをどんどん出してみることです。まずは、たくさんのオプションを出すブレインストーミング(ブレスト・思考の拡散)を行うのです。そのブレストの段階でアイデアを消すのはよくありません。「この政策も効果があるのではないか」「あの施策もあわせてやったほうがいいのではないか」。とにかくオプションを数多く出してみることが大事です。あとで政策を組み上げていく段階でオプションを絞っていけばいいのです。最初はたくさん案がある方が、それだけ可能性が広がるからです。
要するに、考え始めは「こんな施策をやっても課題の根本的な解決にはならないなぁ」などと、思考を止めてしまわない方がよいのです。何にもとらわれないほうがいいのです。とにかくオプションを出してみる。オプションを削るのは後でもできます。
最初の発想の段階で設計する政策を限定的にしてしまわないことが大切です。その代わり、政策を組み上げていく段階で、充分に複合的に設計し、そのロジックを穴のないものにする、そうすることで、政策の質は高まるのです。
5.数学的帰納法
〜政策の正当性の証明
政策を発表し、それを実現させるためには、その政策が西宮にとって有効な政策であるということを証明しなくてはいけません。それが「政策を訴える」という行為です。そのために数学的帰納法に似た考え方を用います。
数学的帰納法は中学で習う数学の証明法で、ある命題P(predicate)に関して、
・P(1)<つまり、その命題に1を代入したもの> は真である。
・任意の自然数 k に対しP(k) が真であればP(k+1) も真である。
の両方が説明できたときに、任意の自然数n についてP(n) は真である、と証明できる、というものです。
任意のnについてP(n)が正しいと証明されていない状態では、P(a)が正しいからといってP(b)が正しいとは限りません。つまり、先に述べたとおり、他所の自治体で成功している政策事例が、必ずしも西宮で成功するとは限らないのです。ですから、自分が設計した政策が西宮でも実現可能であり、効果的であるという証明をしなければいけないのです。
先ほど言ったように、「横浜市で成功しているから、西宮市でも」といっても何の説得力もありません。「政令市だからだ」「関東だからだ」「東京に近いからだ」「市長が中田宏だからだ」「Jリーグの本拠地があるからだ」などと、いくらでも「横浜でできても西宮では無理だ」という弁証は可能だからです。
ですから、他の自治体の例を出す時には、西宮よりも大きな自治体と小さな自治体を出したりします。「横浜でもやっている、そして○○郡○○町でもやっている。だから西宮でもできる。」ということです。これは西宮市よりも大きい自治体である政策がうまく機能しており、かつ小さい自治体でもその政策がうまく機能していることを証明することで、その両方でうまく機能することを示し、その中間の規模である西宮でもうまく機能すると予測されることを証明する裏づけになります。また、関東の自治体と関西の自治体の両方を出したりします。「市川市でもやっている、そして加古川市でもやっている。だから西宮でもできる。」というように。他に、近隣をいくつか並べ立てると言う方法もあります。「宝塚でもやっている、尼崎でもやっている。川西でもやっている。だから西宮でもできる。」というように。
政策の正当性の証明のために他の事例を使うときには、複合的に事例を使うことによって、その政策の普遍性を証明することができます。
このように、政策はロジックとして完成させたあとでも、その正当性や有効性を実証的に証明する必要があります。それは、あなたが美しいと思うものをすべてのひとが美しいと思うわけではないからです。別の立場の人には別の立場の人の思考の基準というものがあります。また、別の立場の人は、しばしば感情的に拒否反応を見せることもあります。そういったときに、落ち着いて、彼らに対して論理的に自説の正当性を証明する必要があるのです。
その「証明」のためには、ディベート的な手法によってブラッシュアップをする必要があります。自分の設計した政策を、自分の立場に否定的な立場から見つめ直すことで精度を高めるのです。いちど完全に構築した自分のロジックに対して、反対の立場から徹底的に反論します。そして改めて、その反論に対して、自分の立場から再反論できるかどうかを考えます。これを改めて逆の立場から…ということを繰り返し、自分のロジックをブラッシュアップしていきます。この過程で先ほど出した、政策をかたちづくるたくさんのオプションを使うか捨てるか考えます。一度の反論で論破されてしまうような政策は出すべきではありません。ひとつの論理的脆弱性があることによって、その政策全体の正当性が疑われることになるからです。
反対の立場からの「自説への反論」に対して反論するときに、特別に気をつけなければいけないのは、感情的になってはならない、ということです。感情的になっている状態は、第三者から見れば「論理的には破綻しつつある」という印象を強めてしまうからです。あくまでロジカルに反論を設計する必要があります。しかしながら、実際の現場ではしばしば相手は感情的です。市民派といわれる左翼などは、いつまでも「弱者の痛みをわからないのですか!」などと言い続けます。こういう相手に対しても、あくまで落ち着いて泰然と論理的に反論するのです。
常に、自分の政策を自分と反対の立場から見つめ直すことを心懸けなければいけません。自分と反対の立場の人たちは悪魔ではありません。そういう発想は、教義を唯一しか認めずに、その反対の立場を「悪魔」だとか「魔女」だとか言って虐殺し続けてきた西洋の発想です。反対する立場の人がいるからこそ、政策は論理的に構築され、その結果としていい政治というものが作られると思います。反対の立場の人たちは自分と方法論が異なっていたり、技術が稚拙であったりするだけで、彼らもきっといい政治を作ろうとは考えていると思います。反論の存在を認め、彼らからの立場から自分の政策を考えてみることは大切です。
もっというなら、しばしば論戦の相手は「悪魔」というよりは「蒙昧」であることがほとんどです。論理的思考や周到な調査といった智慧や、一貫した哲学を持たず、ただただ感情的に行動する「蒙昧」を相手にするときには、あくまで智慧と哲学と論理性を武器に闘ってください。
6.王の目と将の目
〜ロジックの最終的な編集
最後に、ロジックを設計する組み立て方についてお話しします。ロジックの設計には演繹的手法と、帰納的手法があるということについて、です。この段では、それを「王」と「将」という、ふたつの立場の発想法の違いを使って説明します。
王の頭の中には、雲の先の歴史と神との会話があります。常に王国の百年先、千年先の平和と繁栄があります。王は、いましなければいけないことを、千年王国の理想から導き出すのです。王の発想とは、つまり、大きな目標というものがあって、その目標を達成するために必要なことを考えるという、ブレイクダウン型の発想なのです。つまりは、演繹的発想です。経営者はこのスタイルであることが多いです。
経営者には「10年後に全社で売り上げ100億を達成する!」という目的がまずあります。そして、その目的を達するためには「10年後には営業所は全国に20ヶ所に拡大」「8年後には売り上げ50億、営業所を15ヶ所」…という風に逆算して今やるべきことを導き出します。それが、経営者的な発想です。
一方で、将というものは、一般的に思考が帰納的です。将には、身体で感じる眼前の丘と頬を伝う血があります。理想は従う王に預けてあります。将にとっては、いましなければいけないことが、まさしくいま目の前にあるのです。だから、全てを賭けて目の前の敵を打ち破るのです。目の前の敵を打ち破ったあとには、さらに向こうの丘に敵の本隊があります。そして、その向こうには敵国の都があります。目の前の敵をひとつひとつ打ち破り続けることによってきっと千年王国がある、もしくは、千年王国のためには眼前の敵を倒し続けなければいけない、というのが将の考え方です。発想のスタートが、大きな理想ではなく、顕在化している課題なのです。その課題を、解決・集約し、遡っていけば、その課題の原因となる大きな課題があり、それを集約していく先に、きちんと自身の理想とする哲学があるという発想、それはつまり、帰納的発想なのです。
営業所長はなにより、今年の営業目標や、担当している顧客や、日々一所懸命に働く営業マンたちのことから発想します。目の前にある課題を解決し、目の前の目標を着実にハイ達成していくことによって、経営者の掲げる目標に達することが、彼の発想することです。
一般的に右脳人間(感性)は帰納的に、左脳人間(理性)は演繹的に考えます。これはあくまでタイプの問題なので、どちらが良い悪いということはありません。
演繹的な発想は、ピラミッド的な整然としたロジックの設計に長けているぶん、目の前の課題にまできちんとやるべきことがブレイクダウンできているかに注意しなくてはなりません。帰納的な発想は現実的な顕在化した課題からロジックをスタートできるわかりやすさがあるぶん、ロジックの構築が正確かどうかと、最終的に一定の哲学や理想に基づいた体系に構成されるかどうかに注意しなくてはなりません。
このふたつの発想法を、「自分の得意・不得意」で使い分けるのではなく、課題に応じて使い分けられるようになるとよいです。
<このあと、実際に議会での質問の設計を例に出して解説をしました。>
7.すべては、日本のあしたのために
それでは、きょう最後に、みなさんに説教をして終わることにします。
私は、自分より若い相手に対しては、自分のことを棚に上げてでも教育をしなければならないと思っています。それは、自らのしようとしていることが、明らかに自分だけでは達成できないような大きなものだからです。強く美しい同志を増やすことが、歴史に対する自分の使命を果たすには必要なことだと考えているのです。もちろん私もさらに成長したいし、当然不足はたくさんあります。しかし、現時点では私にはあなたたちより、経験と腕がある。だから、みなさんに説教をするのです。
いまから話す内容は、私が自分より若い人に話す機会があれば必ず言っていることです。「政策の設計」について話した相手であるみなさんには、特別に、是非申しておかなければいけないと思っていることです。
7−1すべては、日本のあしたのために
日本はいま、時代の転換期にあります。だからこそ、いまの日本は、次代を拓くあたらしい価値を必要としています。私は西宮市議会議員としての自分の活動を、「日本のあした」に対して果たさなければいけない使命と位置づけています。みなさんがこれから挑戦していくだろう価値創造も、きっと苦難に満ちあふれたものになると思います。しごとには「自分のやりがい」や「自分にとっての楽しさ」を希求して当然ですが、それだけのために生きてほしくないのです、あなたたちのような優秀な人たちには。やりがいが萎えることもあれば、楽しくないこともたくさんあると思います。それでも、この日本のあしたのためにやってほしいのです。「自分のやりがい」や「自分にとっての楽しさ」を上回る、「使命」という歓びの存在を知ってほしいのです。だから、諦めずに最後まで使命感をもって闘いぬいて欲しいし、それが可能な人物になるように研鑽して欲しいです。
7−2信仰してはならない
きょうの私の話を聴いて、私の信者になったり、鵜呑みしたりしてはいけません。信者は、その信仰対象をこえることが絶対にあり得ないからです。私は、あなたたちに私をこえて先の日本をつくってほしいと思っているからこそ、あなたたちにお話ししているのです。先ほど申し上げたとおり、たまたま、いま現在はあなたたちよりも経験があるからという理由で、あなたたちにえらそうに説教をしているだけなのです。ですから、きょうの私の話をバラバラに分解して、ご自身の哲学と技術の深化に使えると思った部品のみを使ってほしいのです。
信仰は呪縛となり、発想を限定し、思慮を奪います。常識とされているものも一度は疑ってかからなければなりません。自分で納得しないものを発想の礎にしてはなりません。定理を一度は自分の手で証明しなければなりません。世の中に常識とされている概念や思想や哲学も、必ず自分のアタマで再検証することを心がけてください。
憲法も聖書も人が書いたものです。人権も自由も平等も、歴史の比較的浅い西洋の概念に過ぎません。百年後に、これらがそのままの重みでそのままの姿で存在している可能性などほとんどないのです。あくまで現時点の行動や現象を縛っている概念なのです。それに変わる価値を創造すべきは他でもない、いまを生きる我々なのです。それが創造的な態度なのです。
7−3情熱だけでは何も生まれない
あなたたち若者に対してオトナが言う「やる気があれば何でもできる」ほどの無責任な嘘はありません。「やる気がある」とか「がんばる」なんてあたりまえ。それがない人など、そのことに携わる資格はそもそもありません。やる気だけでは何もできません。「やる気」はあくまで必要最低条件であり、それに加えて充分な才能、努力、運などが必要です。
史上、情熱だけで何かを為し得たかのように言われている人は、万にひとりの才能をもとより持っていた天才なのです。坂本龍馬は剣術の天才であったと同時に、先見の明などのセンスも天才でした。我々が坂本龍馬の真似をしてなれるのは、ただのものぐさなほらふきでしょう。つまり、我々凡人情熱を形にしようと思うのなら、絶え間ない努力によって智慧と才能を磨くしかないのです。ほんとうに「やる気がある」なら「これ以上絶対ない」というところまで努力をすることによって、才能を磨き、自分の頭を使って考えることが必要なのです。
7−4日本語の通じない相手がいることを知らねばならない
「話せばわかる」のは、相手が充分に理性的であったり、あなたに対して親愛の情を持っていたり、もしくは、そもそも譲歩する用意があるという場合に限られます。あなたは、歴史から与えられた使命である自分の価値創造を遂行するのが目的であって、障害となっている人物を憎むことが目的ではないのです。あなたがいくら正確にロジックを設計しようが、相手にそれを理解する能力がなければ議論は絶対に成立しません。相手はただただ感情論でぶつかってくる場合もあります。ただ、絶対にそういう彼らに対して感情論で応酬してはなりません。それは彼らの思うつぼであり、あなたの設計したロジックの完成度を貶めることになります。
感情は自分を苦しめます。感情は無駄を生みます。感情は判断を誤らせます。あなたと対立する立場の人間が、なぜ対立しているのかを考えてください。そのロジックをあなたが好むと好まざるにかかわらず、相手には相手の論理体系があることを認め、そのロジックをひとつひとつ崩していくことによって論破してください。彼らの土俵にまで降りていって完膚無きまでに論破し、それで改めて自分の土俵に戻って美しく演舞をして終わってください。それが通用しなければ、彼らは日本語が通じない別の動物だと思って対処してください。最後まで感情は不要です。吠えつける犬畜生に真顔で怒るのは愚かしいことです。それと同じです。
7−5 プライドを持たなければならない
あなたたちは、この日本を背負って立つべきエリートたちです。この年齢で、休みの日に「政策」についての話を聴きに来ているわけですから。単位にもならないし、享楽もないこの話に。だから、あなたたちは全員がエリートである、と自覚してください。エリートだからといって、エリートでない人たちに威張り散らしたり、彼らを搾取したり、一目でエリートとわかる豪邸に住んだり高級品で飾り立てたりするのは、いかにもエリート的でない態度です。そういうことは小人のすることです。
鍛えられた才を持つ人間であるエリートたちには、その才を以て、世の中に対して何かを為すという責任があるのです。それを、自覚してください。単に自分が楽しいだけの人生ではなく、日本の歴史に対して何かを為すという使命感を持ち、それを歓びと思ってほしいのです。あなたたちは人の上に立つべき人たちです。人の上に立つべき人に必要な教養と品性を、しっかりと身につけてください。
自分自身の幸せをつかむためだけの鍛錬など、たかが知れています。もっというなら、自分自身が幸せになるためだけなら、鍛錬や情熱など必要ないでしょう、きっと。ひとの上に立って、人々を幸せにするためには、その彼らの何十倍、何百倍のパワーが必要ですから、そのための鍛錬はほんとうに果てしないものになります。それを使命として受け入れ、そのために生きることを歓びと思える人たちになってください。
私がきょうの講演をお引き受けしたのも、そういう意味においてなのです。若いあなたたちに対して、将来この日本を背負うために必要な稽古を付けることは私の使命だから、なのです。だから、きょうの講演では、ある意味では議会での政策提言より充分に頭を使って、手間を取ってしっかり準備をしました。そして、きょうは、そういう誇り高い仕事をあなたたちにいただいたことを、心より感謝しているのです。
ありがとうございました。
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