■profile
今村岳司/いまむらたけし】
西宮市議会議員/3期目 1972年、西宮市生まれ。 甲陽学院高・京都大法学部卒■浜学園講師・リクルートを経て99年、市議トップ当選(26歳)

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2006.07.10

納税者のためでもなく、他の政治家のためでもなく、政治家としての誇りのためにマニフェストを書き始めた自分への書簡。


1、問題提起/マニフェストは神器なのか。

 マニフェスト。ここ数年の政治にとっての画期的なトピックである。昨今の選挙においてマニフェストが掲げられ、社会に浸透しつつあることは、今更ここで私が指摘するまでもない事実である。このマニフェストというものに対して、政治の現実を打破する「神器」としての憧憬の眼差しを向ける者も少なくない。しかし私は、どうもこのあたらしい概念に関する社会的な評価に違和感を感じるのだ。果たしてマニフェストというのはそんなものなのだろうか。
 「−市民に対して一方的に宣言される(つまり、しばしば嘘に満ちている)公約と違って、マニフェストは数値目標や期限を設定しているため、納税者の検証が可能なツールなのである。」
 彼らはこれを以て、マニフェストを民主主義を民主主義たらしめる、つまり、あらまほしきガバナンスを達成する神器とするのである。果たしてそうなのか。この立論は、大いに検証が不足している前提によって成り立っている。砂と筵で建てられた小屋の如き心許なさである。
 私は地方議員である。いやしくもプロフェッショナルとして政治という戦場にある政治家である。宗教家のように空想的な前提に立ち、信仰に曇った眼で、奇麗ごとを吐くことは許されない。研究者のように、理論上の設計のみによって有効性(を含む正当性)を論じることは許されない。
 あえて繰り返す。私は地方議員である。眩暈を覚えるような、反吐が出るような、地方政治・民主主義の現実(むしろ惨状)を無視して議論をすることはできない。宗教家や研究者とは立つべき場所が違うのである。ましてや、思考を大衆と同じ水準に設定してはいけない。大衆との親和を拒むものではない(我々とて、彼等と同じものを食い、同じ地平に生きている)が、あくまで大衆の平安をあずかるプロフェッショナルとしての誇りと叡智を持って議論をするべきなのである。
 この議論において、まずは、現状のマニフェストに対する安易な礼賛に警鐘を鳴らすものである。つまり、「そもそもマニフェストは納税者がチェックをするためのツールとして機能しうるのか」「納税者がマニフェストによってチェックすることが可能になったと仮定した上で、そのマニフェストは地方政治をあらまほしきものにするのか」といったことを、慎重に検証し、巷に蔓延する、マニフェストに対する甘い憧憬に警鐘を鳴らしたい。
 しかしながら、私は別の立場から、別の意味でマニフェストの必要性を認識している。最後にその論を展開することによって、今後の地方政治におけるマニフェストのレーゾンデートルを再設定しようと思う。
 私の論(特に、論の前半)は、やもすれば、現在の「マニフェスト運動」に冷や水を浴びせるようなものかも知れない。ただそれは、研究者やマスコミといった外野からではなく、赤い血のほとばしる生身の政治を闘う政治家という立場からの言だからこそのものと、捉えていただければありがたい。また、これまで私は自らを「政治家」としてきたが、あくまで「西宮市議会議員」である。地方政治の姿というものは自治体の数だけ存在し、それを構成する納税者の民度、政治の発達状況などにおいて規定され、そのステロタイプというものは絶対に存在し得ない。私は自らの論の中でしばしば「現実の地方政治においては…」という論を展開することになると思うが、それは、自らを丸七年に亘って置いた「西宮市議会」という地方政治を元に為す言である。私がその任にない別の自治体において私の論が当てはまらないことが当然にあり得る(現に、三重県議会や四日市市議会の話を聞くにつけ、西宮とは違った温度を感じる)ということは自明である。それでは、前置きが長くなったが、本章に入りたいと思う。
 なお、民主主義というものに関する議論は、本年五月に立命館大学の特別講義で講義した内容をベースにしている。一般的に民主主義や地方政治やマニフェストを語る者と、思考の原点の置きどころにかなり距離があるため、読者の思想によっては理解しづらい場合があるであろう。その場合は、http://xdl.jp/rits.htmlに掲載した講義録(部分的にそこから引用もしている)を参照していただければ幸いである。


2、論理的誤謬の指摘/民主政治の哀しい現実とマニフェスト。

 「みどり豊かな○○」
 「手と手を取り合って進める新しい○○づくり」
 もはや、誰も信じることのなくなった選挙公約。これまでの日本で展開されてきた迎合政治によって、その意味は完全に消滅した。(上記○○のところに自治体名をひらがなで入れてポップ体のフォントで表示してみると、より公約っぽい胡散臭さがでるだろう。さらにイタリックで印刷すれば、そのまま市民派連中の配るアジビラのメインコピーに使うことができるだろう。)
 誰もが政治家のことばを信用しなくなった頃、マニフェストは生まれた。マニフェストは、その政策実現に必要な財政的裏付けや達成目標数値、達成への行程や期限などを併記することによって、嘘ではないと主張することができた。政権を争う者同士がマニフェストを掲げ、それを納税者に宣誓する。これを「政策選挙の夜明け」として歓迎する動きもあった。
 確かに、これまでの公約より、少しは、現実的な政策が選挙の俎上に上がるようになったことは充分認められる現実である。しかし私は、どうもこの「マニフェストで政治は変わる」というような論調にはしらけてしまうのである。民主主義というイデオロギーへの、信仰にも似た無条件な信頼が臭うこの論調に対して、現実の地方政治の現場にある私は違和感を禁じ得ない。
 「マニフェストにはきちんと数値が入っている。だから、市民はその達成をチェックすることができる。」これが、よく言われるマニフェストへの評価である。しかし、果たしてそうなのだろうか。マニフェストで納税者はその政治をチェックできるのだろうか。この章では、マニフェストの優位点とされる「検証可能性」から批判を展開する。
 例えば、待機児童が多い地区への保育所の増設を期限付きでマニフェストに宣誓したとする。しかし、その期限になってもその場所に保育所はできていない。彼はそのことによって罰せられるべきなのだろうか。
 彼の反対派は彼を「嘘つき」として弾劾するのだろう。「新保育所がそこにない」という現実は、反対派の政治家をして大衆を扇動せしむるには充分である。さらにこの「事実」は、大衆紙以上でも以下でもない「新聞」にとっても格好のネタとなる。マスコミは政策の現場などには興味はない。その理由は簡単で、大衆がそれに興味がないことを知っているからである。(だからこそ、「不祥事」のニュースは熱心に宣伝する。)「マニフェスト」が掲げられた時点では、おそらく自らを「政治を作る勢力」と自惚れる「新聞」は嫌々(大衆が関心を持っていないと知っているから)それを取り上げるのだろう。しかし、そのマニフェストが「不履行」となれば、「新聞」にとってつまらないものだったマニフェストは、途端に「おもしろいネタ」になる。その理由がなんであれ、「新聞」はそれを批判することによって、大衆のストレスを煽り、自らのアイデンティティを確保することができるからである。
 そもそもなぜそこに保育所が期限になっても現れなかったのか。その理由に耳を傾けようとする納税者がどれだけいるのだろうか。仮にそういった見識を微かに持っていたとしても、「新聞」と反対派の喧伝によって彼も洗脳されてしまうだろう。なぜなら、彼にとってすら、その「新聞」が唯一の検証の手段だからである。彼がいくら「新聞」を検証の手段として利用しようと思っていても、他の大衆はそうは思ってはいない。大衆は、「新聞」を、ひいきのチームの勝敗を確認することと、悲劇的なニュースに共感した振りをして自らの良心を確認すること以外には、思い通りにならない世の中を批判することで事情通を気取ることに利用するツールとして使っている。そう、彼らは批判したいだけなのである。批判というのは褒めすぎで、むしろ愚痴を言うことによって、自らの感じている不足のはけ口としたいだけなのである。しかも、彼らはしばしば「ちゃんと新聞を読んでいること」を自らの「愚かではない」証明とする傾向があり、それを背景に、「新聞」は彼らに対しては圧倒的に優位に立つことが可能である。さて、政治の現場に思いをはせる良識を持つ読者と、判断力に乏しく自らに隷属する大衆と。「新聞」がどちらの方を向いてその輪転機を廻すかは、自明である。
 「新保育所の不存在」という現実は、彼の怠慢や敗北によるものなのか、彼の臨機応変な状況判断によるものなのか、納税者には判断することは不可能である。その新保育所よりも重要な政策課題が発生することは充分に考えられる。なにせ、任期は自治体首長で四年である。選挙のときに設定した政策課題が四年間に亘って何も変わらないという可能性は極めて低い。国の動向や社会状況なども変わるだろう。だからこそ、彼がマニフェストに宣誓した「新保育所」を断念することは、英断であった可能性も充分にあり得る。もちろん彼はその事実に対する説明責任を負っているわけで、説明はするだろう。しかし、それを信じるべきなのかどうなのかを判断するすべを持つ者は、政策現場にある者以外には誰もいない。彼の説明は、政策判断に対する説明責任を果たすためにしていることなのか、自らの体裁を取り繕うためにしていることなのか、それを判断することは誰にもできない。それを判断するのは、単純にそれぞれの彼のイメージに対する先入観である。むしろ、それは「新聞」の手に事実が委ねられた後は、その「新聞」の大衆に迎合する論調によってすべて塗りつぶされてしまうのだ。
 それを畏れることによって、政治家が「マニフェストを達成すること」そのものを目的とするようなことがあれば、さらに悲劇である。大衆が騒いで政治家に約束させたマニフェストが納税者を(しばしば将来の納税者を)苦しめるという「民主主義の自傷行為」は、歴史上何度も繰り返されてきたのである。自らが嘘つきと呼ばれる危険性を顧みずに政治判断を下すか、自らのヒロイズムを満たすためだけに大衆に迎合するか。政治家がそういう選択を迫られる状況になることは充分に考え得るのである。
 「果たして民意は真に健全か」という命題を飛ばすことはできない。そもそも大衆は、高度複雑化した政治に対してソリューションを下せるほどに成熟しているのか。大衆は、「新聞」が煽り立てるセンセーション主義と恣意的なストレス醸成からフリーでいられるのか。このふたつの問いに対して自信を持って「イエス」と答えられる者は、誰一人としていないであろう。
 マニフェストの達成状況を納税者が検証することは最終的には不可能である。また、検証できたとしても、マニフェストの達成ということ自体があらまほしきことなのかを判断することは、さらに難しいのである。


3、前提の再検証/民意が反映されればよいのか。

 ここまで私の論にお付き合いいただいた方はもうおわかりであろう。私は大衆の判断には何も期待していない。「民主主義」を自らの教条とするようなドグマティックな政治家ではない。「民意が反映される」ことを究極目的と誤認している政治家がいるが、それは大変な無責任である。我々はプロフェッショナルとして、大衆を愛しみ、大衆を導き、大衆を幸せにする義務があるのである。その義務を大衆に押しつけることはできない。「みんなで造った船だから沈んでもしかたない」とでも言うのであろうか。大衆のために生き、大衆のために死んでいくのが政治家としての責任なのである。
 現実の二十一世紀の日本では民主主義がルールである。しかし、それがルールだからと言って、それを単純にあらまほしき方策と捉え、「民主主義だから正しい・民主主義であれば正しい」と教条的に判断することはできない。民主主義は完全理論ではない。繰り返されてきた政治制度の栄枯盛衰の歴史の中において、この現在あるのが民主主義であるというだけで、「民主主義的に政治を行う」ことが究極目的ではないという立場に立たなくては政治家は務まらない。(「民主主義的に政治を行う」ことが究極命題なのであれば議会政治を放棄し、何でも住民投票で決めればよい。それがどんな悲劇を生むかも知らずに。)「民主制」「人権」「自由と平等」…。あらゆる信仰による呪縛からの脱却によって、あらまほしき政治家の在りかたを設定しなくてはならない。そのときにまず、政治家に必要なのは、「代案なき再設計」を許す寛容である。「ならば何主義を崇めればよいのか」と問われても、民主主義に替わる信仰の対象は簡単には現れないだろう。そもそも民主主義に替わる新しい制度が高い精度で設計できるのであれば、もうとっくにどこかで採用されているはずである。つまり、眼前の課題を解決すべき実務家である政治家にとって、民主主義的か、非民主主義的かは重要な論点ではないのである。究極概念を追求する西洋観念論的作業を目的とはせずに、あくまで現実という場所に立つ実務家としての発想を設計することが我々に要求されるのである。
 そもそも、民主主義が、各種「経典」で尊敬されているほどに、納税者が求めているものではないという現実からも目を背けてはならない。低下する一方の投票率。果たしてそれは責められるべきことなのだろうか。その問には「もし全国民が投票すればほんとうに幸せな世の中はくるのか」に思いを馳せると答えはすぐに出る。納税者が求めているのは「幸せな生活」であり、「参政」ではない。百歩譲ったとしても、それはせいぜい「納税納得感」留まりであろう。それは歴史を紐解けば明解である。歴史が求めてきたのは常に、「参政権」というよりもむしろ、「圧政からの解放」であったのだ。
 ここで興味深いデータを紹介しよう。昨年二月に内閣府がおこなった「裁判員制度が始まったら裁判員として参加したいか」という世論調査に関して、「参加したくない」と答えたのは七割にのぼった。当然であろう。自分と関係のない裁判に関してなぜ自分が駆り出されないといけないのか?普通に考えて、ただの面倒であり、迷惑である。そんなものプロフェッショナルである裁判官が勝手にやってくれ、というのが、当然の感覚であろう。(私の意見であるが。)
 納税者のほとんどは、マニフェストを検証したいとは思っていないと言えよう。つまり、納税者に検証できるようになったからと言って、マニフェストが公約より優れているとは言えないのである。また、先にも述べたように、納税者がマニフェストをほんとうに検証することは不可能である。
 それでは、マニフェストには公約に代わって政治を変えることはできないのだろうか。マニフェストはあしたの政治に必要ではないのだろうか。


4、原点設定による再展開/民主主義という前提、納税者視点からの解放

 ここまでの私の論では、マニフェストは何の役にも立たない代物、ということになってしまうかのようだ。しかし、それは読者が自然と、ある一面からしかこの議論に参加できなくなっているからそう見えているだけなのである。
 それは、民主主義という前提に立っての議論参加であり、納税者の視点からの議論参加である。しかし、この論を展開する前に、私が政治家であり、その政治家という立場から論を展開するということを宣誓した。また、前章の入り口では、私が民主主義信者ではないということを告白した。ここからは、私の職業的・哲学的位置からマニフェストの有用性を再検証してみることにする。つまり、民主主義という括りをいったん外してガバナンスというものを再考し、その中でマニフェストを再評価したいと思う。
 まずは、私の「民主主義信者ではない」という立場についての若干の補足が必要かと思う。というのも、私は別に「民主主義を倒したい」と考えるクーデター主義者でもなければテロリストでもないということだ。私は、「民主主義を現実として受容し、その範囲内で実務家として、あらまほしきまつりごとのために闘う」という立場にあるのだ。私に言わせれば、民主主義など虚構に過ぎないのだが、だからといってそれは自分に変えられるものではない。それは私がこの民主主義が常識となってしまった時代に生を受けたこと、それを直接的に左右する可能性が微かに存在する国政という立場にないこと(その立場に対する意欲が全くないこと)などを考えれば、哀しい現実として諦めるに充分である。それを変えることに懸ける時間は、政治家としての私にはない。だからといって、この民主主義というものに代わるあらまほしき社会が来ることを待つことはできない。だからこそ、民主主義を前提条件と置くのである。民主主義かどうかなどどうでもよいのだ。民主主義という用意された前提によって運営される選挙に則って政治家としての使命を受け、西宮のあしたのために必要な仕事のために前提条件の範囲内で闘うのだ。民主主義にガバナンスが阻害されようとも、政治の現場での闘いを止めてはならないのだ。
 ここで、議論をマニフェストの(私の職業的・哲学的位置からの)有用性に戻そう。結論から言えば、マニフェストは、納税者にとっては必要なのかどうなのかわからないような代物かも知れないが、政治家にとってはまさしく必要なものなのだと私は考えている。それは、二元代表制という制度の下で、政治家が本来の役割を果たすために必要なのである。


5、新たなる課題の設定/二元代表制とは名ばかりの、地方政治の現実的危機。

 地方議会では二元代表制がとられている。首長も議員も、同じく正当に民主的手続きによって選出された「市民の代表」なのである。よって、この「長と議会」は、理論的には対等だと言えるのである。しかし、現実は「対等」とはほど遠いものと言わざるを得ない。 執行機関の長と、議会議員を別の選挙で選ぶということは、つまり、議会議員が執行機関を生成できるわけではないということを即ち指す。首長には 「市役所」という執行機関が下部機関として存在しているのに対し、議会は執行機関を持たない。この時点で圧倒的な非対等性が存在している。さらには、当然のことながら、執行能力だけではなく、政策形成能力にも大きな差が生じることになる。
 もうひとつの大きな問題として、議会の意志はひとつではないということを挙げなくてはならない。首長の絶対的なトップダウン型リーダーシップによって 存在する「首長・役所連合体」と較べて、議会は、内部で数の論理による不毛な綱引きを繰り返している。当然ながら、一枚岩とは言えないのである。それが「多様性の反映」としてあらまほしきものとする意見もあるが、それがあらまほしいかどうかは別として、長に対する相対的な弱体化に繋がっているのは事実である。
 それに、議会と議員では、個としてもっている「信託性」がそもそも違う。選挙で「1人選ぶ」と「多数を選ぶ」では大きな格差があるのは当然である。 平成16年に実施された西宮市長選挙では、当選者得票数は60,430票(有権者35万人、投票率26.8%)であったのに対し、平成15年に実施された西宮市議会議員選挙における最下位当選者の得票数は1,748票(有権者35万人、投票率41.4%)。余りに低い投票率に関しては、この際議論しないとして、これでは「どちらの言うことが尊重されるべきか」に差があるのは当然である。
 それ以前に、地方議会は理論的には「立法機関」ではあるが、一切の立法をしていないという現実がある。確かに、理論的には条例は議会の多数の賛成によって可決するため、議会はつまり最終意志決定機関だと言うことは不可能ではない。しかし、首長が提案するほとんどの議案は否決や修正されることもなく議決されるため、実質上の追認機関となっているのが現実である。もちろんその原因としては、政策立案能力不足、政策設計補助機関の欠落、派閥間の馴れ合い体質(もしくは逆に不毛な足の引っ張り合い)など、これまで挙げてきた重層的な問題点を顧みることができる。
 一方で、「議会の役割は行政のチェックだ」ということを真顔で主張する意見もある。これは、現代の社会に蔓延する、悪しきアマチュア主義の表現と唾棄せざるを得ない。「行政のチェック」ならオンブズマンやマスコミですら充分であり、それのみによって税金でペイを受ける正当性はとても低いと言わざるを得ないからである。しかも、そのチェックには限界がある。よく、行政の不祥事がマスコミによって表沙汰になったときに「チェック機関である議会は何をしていたのだ!」という意見が聞かれるが、現実的には議会が充分なチェック機能を果たすことなど不可能である。そういった膿の噴出は、議会やマスコミが「暴く」のではなく、結局は「垂れ込み」頼みとなっている。情報提供側からすれば、その「垂れ込み」の先としては、慎重に議論する議会などより、センセーション主義で飛びつくマスコミの方が都合がいいのは自明である。上記のことから、議会を「行政のチェック」のプロフェッショナルとおくことが難しいということは証明されたと言えるであろう。
 つまり、地方議会とその構成要素である地方議員はそのレーゾンデートルを厳しく問われるという、非常に危機的な状況にあるのである。


6、マニフェストのレーゾンデートル/地方政治の復興のために。

 その危機的状況に気付いている心ある政治家たちは、この地方政治の危機に真摯に取り組もうとしている。その中で議会版ローカル・マニフェストの可能性なども論じられている。しかし、私は、政治の質を制度や方策や技術で担保することは根本的に不可能であると考えている。政治を変える神器などは存在し得ない。政治の復興とは、智慧と勇気のある政治家が、その自己の誇りと責任とプロフェッショナリズムの範囲内において達成すべきことであると考えている。だからこそ。私はその範囲内においてこそ、ひとつのツールとしてローカル・マニフェストも可能性を秘めていると考えている。
 そもそも、私は「ローカル・マニフェスト推進地方議員連盟」に加入したとき、まずは、「議員にとってのローカル・マニフェストとは何なのか」という議論をしようとした。なぜなら、「政権公約」であるはずのマニフェストは、本来「政権」をとり得る者によって掲げられるべきものだからである。つまりは、首長候補や政権を目指す政党以外には、掲げる権利はない、なぜなら政権をとれない以上、納税者の検証に晒されることができないから、というのが初めに私の立っていた立場であった。それが、ローカル・マニフェスト推進地方議員連盟の会員拡大活動に無条件には協力できなかった理由である。自らで正確に意見を確立していないものを広めることはプロとしてはできなかったのだ。しかし、先述のとおりの、納税者の検証の不可能性及び不必要性を発見するにつけ、議員版ローカル・マニフェストというものの可能性をかえって認識するに至った。つまり、どうせどちらも納税者が検証することなどは不可能なのである。どうせどちらも納税者に検証してもらう必要などないのである。ならば、マニフェストは何のために存在するべきなのだろうか?
 あえて結論づけよう。マニフェストは、理念によって行動するプロフェッショナルな政治家自身にとって必要なものなのである。政治判断は、大衆の要求などに迎合することなく、筋の通った政治哲学と総合的な全体計画に基づいて為されるべきであるからである。そのために、自らの政治活動の拠り所として、自らマニフェストを設計するべきなのである。政権の座につくべき者であれば、その政権の運営を迷わないために、自ら設定するべきなのである。だからこそ、数値の裏付けと論理的なパスの設置を伴って設計する必要があるのである。他ならぬ自らのために。ならば、議会版ローカル・マニフェストも充分に存在意義があるではないか。議員としての職にある限り(少なくともその一区切りの任期にある限り)、議案ひとつひとつの審議はもちろん、議会での質問に至るまで、一定の哲学と論理的思考に順って政策提案を続けるべきなのである。そのために、自らを律する規範として設定する必要があるのである。
 マニフェストを単なる情報公開の道具にしてはならない。あくまでも、哲学と論理的思考に順って行動するプロフェッショナルな政治家の自律規範として存在するべきなのである。真に誇りを持つ政治家であれば、大衆は欺けても、自らを欺くことはできないはずである。
 政治家が、真に政治家であるために。やはり、マニフェストはこれからの政治に必要なのである。
 最後に改めて、私が議論の拠り所としたのは、自分の七年間の地方議員生活だとお断りしたい。叡智に溢れる納税者たちによって、優秀な政治家が選ばれているような自治体はきっと存在するはずである。数少ないと思われるが、そういった自治体では、納税者と政治家のケミストリーによって、私の展開した議論とは違うレイヤーで、あらまほしきガバナンスが展開されているかもしれない。当然そういった自治体では、私が指摘した以上にマニフェストの可能性があるだろう。それでもあえて言いたい。マニフェストは、誇り高き政治家にとっての自律規範であり、「マニフェスト運動」は納税者と政治家の関係を規定するものではなく、政治家の質を高めるために必要な運動なのである、と。



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